泡影の姫

タバコを諦めて視線を上げれば、数m離れた人混みの中に蹴り飛ばしたいくらい憎らしかったあの背中が見つかった。

それは、突然の出来事だった。

考える間もなく、走り出していた。
湊を目指して体が勝手に動く。
足が何度かもつれかかったが、かまっていられなかった。
今あの背中から目を離せば、もう二度と湊に届かない気がした。

「湊」

肩に手をかけると同時に、私は叫んでいた。
それは紛れもなく湊だった。

「おまっ」

驚いたその顔を見ながら、湊の腕をつかんで私は地面にしゃがみこんだ。
肩で息をする。
息苦しいけれど、不快ではない。
こんなに必死で全力疾走したのはいつ以来だろう?
少なくとも激しいスポーツは禁止と先生に言われてからはやってない。主治医の怒った顔が脳裏にちらついて、ごめんと心の中で軽く謝る。
万が一足に水がたまった時は、治療代を湊に請求しようと思った。

「一体、どうしたって」

「タバコとライター」

「はっ?」

「返して」

「それだけのために走ってきたのか?」

呆れながら、湊が私を助けおこす。
別にタバコもライターもどうでもいい。
気の聞いた言葉が出てこなかっただけだ。