それはない、と芳子は頭の隅でおもった。
 あの子は天狗なのだから、天狗として山にいるはず。何らかの理由でここに戻らないだけなのだ。ところが、その理由がわからない。そして紫青が残した言葉も気に掛かる。堪えきれず、紫青が消えて七日目の夜、ついに芳子は実原に紫青の素性を語った。

「……天狗の子」
 実原はそう漏らし、しかしそれ以外は何も言わずに妻の話に耳を傾けた。実原は、紫青が己の子ではないことはずっとわかってはいたし、紫青の父親が人間以外のものであるという予測もなくはなかった。そうでなくては、紫青のあの容貌、色。解せぬところが多すぎた。

 実原の屋敷の者にとって、紫青は確かに困った御曹司であった。
 放浪癖があり、掴み所がない。しかしその飄々とした中には愛嬌があり、世の人には恐ろしいと言われる程の器量にも実原の屋敷の者にとってみれば慣れた物。紫青は愛されていた。

 その紫青が天狗にさらわれた。この考えは屋敷の者のあたまを支配し、山へ入ろうと声を上げる者まで出た。その熱に圧され、主夫婦は実情を述べる事も出来ず、かくして弥平と太助が二人、山へ入り天狗の手から紫青を救うのだと屋敷を立った。それが昨日のことである。