家の者が起き始める頃、実原右大臣はそっと床に戻った。粗末な着物は脱ぎ捨て、いつもの絹の衣に腕を通していた。
氷魚の顔に触れたときに気付いたが、そのときの己の腕は若い頃のように太く、力強いものだった。今は既に、見慣れた皺の寄った腕だ。
薄縁の上に座し、父の最期を思う。
氷魚の顔から手を離すと、氷魚の瞳は光を失い、有青の両眼は何事もなかったように見えた。それでも氷魚は満ち足りた笑みをして、深山の方を向いた。
「参ります。もう何も、思い残すことはない」
深山は、ああ、とか、おお、とか、聞き取れないほどの低い声で応えた。有青がわからないでいるのを察して、氷魚は振り返った。
「私も、清青様と共に」
「……自死、すると言うのか。仏の御心に反するぞ、畏れ多い」
慌てふためく有青を深山が鼻で笑った。
「何を今更。ここは山だ。法力も神の力もないわな。ただ、命があるのみ。さっきそう話したろうが」
「有青殿」
氷魚は眉をさげ、己の胸に手を当てた。
「もとより、清青様によって長らえた命。私に残された二百余年は、清青様なしで生きるにはあまりに長いのです」
氷魚を抱き上げ、深山は瀧の真上を目指した。そして肩から清青を下ろし、氷魚にその体を掴ませる。
「感謝します」
「勝ち誇った顔をしやがる。お前達は、一人残った俺がどう思うかなぞ、知る由もないわけだな」
「まさか、寂しいとでも」
「氷魚、お前に対しては思わんよ」
琥珀色の目を細めた。
そして、二人の体を瀧へと放った。



