翼のない天狗

 氷魚。

 己を呼ぶ声が聞こえ、氷魚は上を見た。
 血の色をした水の中から、大きな影が現れる。

 ゆっくりと沈んでくる、鯱。
 その大きな口から見える、白い腕。

「姉様……」
「氷湟様!」
 目を血走らせ、汪魚は鯱に向かう。
「兄様」
 氷魚が声を出したその刹那、鯱は閉じていた瞼を開けて、動いた。大きく身をよじる。口を開け、汪魚を飲みこもうとした。

「おのれ」
 叫んだのは氷湟。右腕をまっすぐに伸ばし、鯱の口へ飛び込んだ。鯱の口から、先に食い千切った氷湟の左腕が零れた。鯱の目が、光を失った。

「姉様あああ」
 鯱の口の中で、その鋭い歯に体を貫かれて氷湟が微笑む。顔からは血の気は失せて、ただでさえ白い肌が青い。
「氷魚」
 息も絶え絶えに、氷湟は氷魚を呼び寄せる。ちら、と汪魚を見た。放心状態である。氷魚は、氷湟の生生しい傷に目が向いてしまう。少し嘔吐した。
「馬鹿な子」
「姉様、私は」
「母様は? 母様を頼んだのに」
「でも、私、姉様が」
「ありがとう」

 氷湟はゆっくりと息をした。また、おびただしい血が腕の傷口から溢れる。
「あなたの父様が、死んだわ。この鯱の鰭が、父様を打って、そして喰われた。この、腹の中にいる」
「今、鯱の体を切り裂けば」
「ばらばらになった、仲間を、見たくはないわ。このまま、行かせて」