「邑上です」
「ああ、はいはい。どうぞー」

 少しばかり間の抜けた返事がフェイクである事は、2年目になってからようやく気付いた。

 上っ面の穏やかさに騙されると、痛い目に合うのだ。

 実際、痛い目に合って職場を去っていった職員を何人か見てきた。

「はいはい。座って座って」
「……失礼します」

 促されるまま、少し硬いソファに腰かける。

 神林はゆったりとした動作で亮介の前に腰を下ろしてにこりと笑った。

 その目が笑っていない事は明らかで、余計に怖い。

「あのねぇ邑上くん。ハンコのことなんだけど」

 ハンコのこと、と言われ、そっちの方かと亮介は密かに顔を渋らせた。

 ハンコとは教習項目につき押印していく判子のことで、よく教習生が「先生、今日ハンコもらえますか」と聞いてくるアレである。

 既に『鬼教官』と名高い亮介の判子の押し具合は想像に難くなく、進度を遅らせるとその後に教習を担当した指導員が2つ3つと押印してプラマイを取ることも珍しくない。

 それも相まって、教習生の間では「あの先生は3つも押してくれたのに、邑上は全然くれない」ともっぱらの話題である。

「あんまり押さなさすぎるのもねぇ。やっぱり良くないからねぇ」
「……はい」
「ほら。この間入ったでしょ、総合監査。公安委員会の」

 総合監査という言葉に、亮介の体からじわりと汗が滲み出る。

 それが重大なとこであるというのは、ペーペーの亮介にも理解が出来た。


 思ってたよりヤバい話か……?


 指定自動車教習所は、警察組織の一部である公安委員会の管轄の元、道路交通法に定められた厳しい基準をクリアして初めて運営を行うことが出来る。

 教習時間ひとつ取ってもその内容は道交法に定められており、50分以下でも以上でも教習として成立させることが出来ない。

 場内で使われるコースの広さも幅も、コース内の設置物はおろか、夜間照明にさえ決まりがあるのである。

 それだけに、運営中も様々な法律に縛られなければならない。

 その中の一つが、総合監査である。

 年に一回、適正な教習の運営が行われているか否か、公安委員会の職員(要は警察官だ)が数人教習所へやって来て、各種書類を確認したり教習に同乗したりと検査を行う。

 問題が発覚した場合には、卒業証明書等の発行に係る業務の禁止――発行禁止処分――つまり、全ての教習が行えなくなる事もある。

 事実上の営業停止処分だ。

 最悪の場合には、指定の取り消しなどという事も有り得る。