それから一週間程経ち、ミカエラは泣き暮らしていた姫の部屋を訪い、「外に出てみないか」と中庭に連れ出した。姫は「は、はい」と少し怯えの表情を見せながらも、中庭に降り立つと途端に元気になった。ミカエラはせっせと花の冠を作る姫君に、「こないだは……」と言いかけ、その唇を指でふさがれた。
「もう、言いっこなしですわ。私が悪かったのですもの。どうかお気になさらないで」
 姫はそう言って、「はい、冠です」とそれをミカエラに渡そうとした。そこで女帝付きの従官が「皇帝陛下」とミカエラを呼んだ。
「一体何をしているのですミカエラ。今にエリオプバーグ侵攻軍があの国に押し寄せます。さすればあの姫君は最も邪魔な人質です。殺さぬ訳には参りますまいよ」
 女帝に城のテラスに招かれたミカエラは、眼下の中庭で花を摘むリエナを見、「しかしあの女は」と口を挟んだ。
「あの女は魔女です」
 それへマリアがぴしゃりと断じる。
「知っていますかミカエラ。エリオプバーグ王家の女は魔女に呪われているという話を。彼女もまたその呪いを受けているとの報告がありました。そのような化け物に、心など移す必要も、優しくしてやる事もありません。このひと月のうちに、必ず殺しておしまいなさい」
 女帝の言葉が胸によぎり、暗澹たる気持ちでミカエラは再び中庭へ戻った。次に目に映った光景に目を見張った。中庭に姫を中心として、巨大な円を描くように花の冠が作られている。
「るーるるー愛しき人が為に、この瞳は太陽の如く瞬く。愛しき人の為ってきゃあっ」
 姫は突然戻ってきたミカエラに驚き、急いで両手を背中に回す。どうやら花はそこから伸びているらしい。
「……それがエリオプバーグ王家の呪いか。見せろ」
「嫌です」
「いいから見せろ」
「嫌ですったらきゃあっ」
 無理やり開かせた姫君の手の平からは、シロツメクサやヤマブキがむくむくと育っていた。ミカエラは驚愕の思いで姫に問いかける。
「お前、手の平から花を出して、痛くないのか?」
「えっええ……抜く時は痛いですけれど……あいたあっ」
 姫は思い切って花の茎を手から引き抜き、シロツメクサの花束を作りあげると、「はいっ」とミカエラに差しだした。
「これ、花束です。私達の国では告白の際に、花を渡し、両方で交換すると愛が結ばれると言うならわしで……」
 リエナの口ぶりが静かになっていった。それは夫のミカエラが凍てつくような眼差しでこちらを見ていたからである。
「ご、ごめんなさい。私ったらまた粗相を……」
「……俺にはお前からの花束など貰う資格はない。じゃあな」
 去っていく後ろ姿を見送りながら、「ミカエラ様……」と姫はまた涙をこぼした。

 その夜、姫は寝室のベッドの上で、花瓶に入れたバラの香りに酔いしれながら、うとうととしていた。もしミカエラがやってきたら、この美しい深紅のバラを渡そうと思っていたのだ。そこへ音もなく、1人の男が入ってきた。その気配にそっと姫は目を開ける。
(ミカエラ様かしら。この花束を、渡さなくては……)
「きゃあっ」
 急に覆いかぶさってきた男は、ミカエラではなかった。髪は夜のような漆黒だし、顔つきも整ってはいるが、ミカエラではなかった。
「嫌っ嫌―!!! 誰か助けて!」
 姫が必死に叫ぶも誰1人来ない。隣室にいるミカエラが全て侍女を帰してしまっていた。
「これで姫は姦通の咎を負い、その罰として処刑される。いやあ兄上は、恐ろしい事を考えられますねえ」
 隣室にて姫の悲鳴を聞きながら、マルコシアスはにやりと笑む。そのかたわらで腕を組んだミカエラは、苦渋の表情と叫びとを必死に噛み殺していた。
(こうすれば、こうすれば俺も踏ん切りがつく。あの女に対して抱いたほのかな憐れみも、全部失ってしまえる)
 けれども彼の頭には別の事ばかりよぎっていた。あの不器用な花の冠。それを差しだした愛らしい手。瞳。全てが彼を責め苛むのである。
「いやああああ助けてミカエラ様―! ミカエラ様―!!」
「ちっ」
「兄上!?」
 ミカエラはたまらなくなり、ついにマルコシアスを押しのけて隣の部屋へ押し入った。そして姫に覆いかぶさる男を突き飛ばし、「出ていけ!」と凄まじい剣幕で怒鳴った。男はおそれをなして逃げていく。
 2人きりになった部屋に、姫の嗚咽が満ちる。姫は乱されたネグリジェを直しつつ、ぼろぼろと涙をこぼした。
「うっううっ」
「……怖かったろう。すまなかった」
 ミカエラがそう言うと、姫は
「うっくごめんなさいミカエラ様、ひっくでもお願いが、あるんです」
 と涙ながらに答えた。
「何だ?」と彼女に近づくミカエラの、袖を引っ張って姫はその胸に飛び込んだ。
「なっ何だ!」
 驚きのあまり23歩のけぞったミカエラなど、おかまいなしに姫は泣き続ける。
「怖かった、怖かった怖かった……」
 姫の涙は止まりそうになかった。ミカエラは今まで彼女に咎を着せ殺してしまおうとした事も忘れて、その頭を優しく撫でていた。
「すぐに来てやれなくてすまなかった。さぞ怖い思いをしたろう。もう大丈夫だ」
「えっくえっく……はい」
 姫は涙を拭って、
「ミカエラ様がついていて下されば、大丈夫ですよね。なんだか安心しました」
(俺も男なんだがな)
 その日ミカエラは、リエナが安らかな眠りにつくまでベッド脇のチェアーに座り、その頭を撫で続けた。

 それからは公務が忙しく、ミカエラが妻と再びまみえたのは一週間後だった。2人で白馬の手綱を取り、所領のエウロパの森に遊びにやってきた。青草ばかりで、花のないその森も、姫が森中に花の円を作ると華やぎが一度に増した。ミカエラはそこでリエナに花の冠をつけられ、渋い顔をしたのを彼女に笑われた。いつの間にか、2人は心を許しあっていた。
(いつぶりだろう。こんなに楽しく、心安らげる時間がもてたのは)
 ミカエラはふと物思いにふける。
(物心ついた時から母の人形として操られ、皇帝に即位してからもそれは変わらなかった。非情であろうと全ては母が正しいのだと、そう思って生きてきた。だが……)
 ふと顔を上げて、満面の笑みを見せる姫君に、うっすらだがミカエラは頬笑みを返した。
(今度ばかりは逆らう他ない。俺は、この女に惚れてしまったらしい)
 だがミカエラには、彼女に対してどうしても解せぬ事があった。
「なあリエナ、なぜお前はそんなに俺を信じるんだ。こんな冷血王と呼ばれる俺を」
「……お城の花達が言っていました。この方は恐ろしそうに見えても優しい方だって。ふふっ、はい!」
 その時姫がミカエラの胸の前に花を差しだした。シロツメクサの花束である。
「ああこれは、お前の国の儀式なのだな」
「はい……」
 照れたように笑う姫を、ミカエラは心底愛しいと思った。そのまま姫の細い顎を取り、甘い声音で囁く。
「花を返してやりたいが、今は唇しか持ち合わせがない。それでもいいか?」
「えっあ、はい!」
 姫はその柔らかな瞼を瞳にかける。2人の距離がゆっくりと狭められていく。
 それを木立の影から、マルコシアスがじっと見つめていた。

 厩舎に寄ってから、城へ戻ると城内の従官がこぞってミカエラを探していた。
「陛下、マリア様がお呼びにございますれば、急ぎお向かい下さいますよう」
「分かった」
「あなた!」
 侍女に腕を取られたリエナが、悲痛な声でミカエラを呼ぶ。
「大丈夫だ。すぐ戻る」
ミカエラはにこっと笑んで背を向けた。
 ベルゼル宮に入ると、女帝は玉座に腰かけ、ミカエラとマルコシアスの入室を待っていた。2人が片膝を落とし、女帝の前に現れると、彼女は厳しい表情で言った。
「ミカエラ、マルコシアス、よくお聞きなさい。南のエリオプバーグ、北のアンデルがついに兵をあげました。ですが両軍の統率は取れておらず、武器も旧式の型であるようです。1月もあれば軍配はこちらに上がるでしょう。その暁には、反逆人の人質の末路として、姫を拷問の末、煮え湯の後車裂きの刑とします。それまでは下手に自殺などされては困りますから、この城のいずこにか幽閉しておきますね。ミカエラ、忠実な優しい夫のふり、御苦労様でした。母の何より大切なお前の新しい妻は、私が選びます。では、下がってよろしい」
 2人が玉座の間を出ると、すぐさまミカエラの表情が歪んだ。
「くっそ母上め! このままじゃあいつが殺されてしまう! どうすればいい!」
「まだ手はあります」
 マルコシアスの一言に、その苦悶の表情が一瞬和らいだ。
「……どうすればいいんだ?」
「まず闘いは避けられそうにありませんから、こちらの軍が緒戦で圧倒的勝利をおさめるのです。それで両国がひるんだ隙に、リエナ姫に<支配下には置くが、自治を認める>という条件でエリオプバーグに説得にあたってもらい、講和に持ち込むのです」
「そうすれば戦に巻き込まれず多くの民を救え、リエナも講和の立役者として無罪放免になる訳か。だが母上がそれで納得するかどうか」
「それは宰相である私と、現皇帝である貴方が力強く説得するほかありません。残忍な義母上も貴方には弱い」
「しかしあの姫がどこにいるかも分からんのだぞ……」
「嘆きの塔です」
「何っ」
「私も個人的な諜報部隊は持っていますからね。あの塔に姫は幽閉されています。今宵忍んでいきましょう」
「マルコシアス……お前」
「私は兄様の笑顔が見たいだけですよ」
 マルコシアスの柔らかな微笑に、ミカエラも覇気を取り戻し、「それでいくぞ!」と頷いた。