「裕兄ちゃんおかえり〜 ‼︎ 」
玄関ドアを開けると、甥っ子の拓也が飛びついてきた。
「おっと!」
ズッシリ重くなった身体を受け止め、持ち上げた。
(子供ってのはいいな。心に垣根がなくて…)
しがみつく身体をぎゅっと抱きしめながら思った。俺にもこんな子供時代があった。
「何してんだよ、早く上がれよ」
玄関のたたきに突っ立ったまま、拓也とじゃれついてる俺を兄貴が呼んだ。
「お前が久しぶりに帰るって言うから、母さんが張り切っててさ。今夜すき焼きに急変更だよ」
笑いながら前を歩く兄貴の背中を見ながら、俺の心臓はドキドキと鳴っていた。
真奈と別れてから実家へ帰ったのは、半年以上ぶり。その間、両親には何も連絡してなかった。
リビングのテレビの前では、親父が早々とビールを飲んでいる。その顔がこっちを向いた。
「た、ただいま…」
挨拶をするのも気が引ける。いかに俺が親不孝をしてるかって証拠だ。
「おう、おかえり」
機嫌良く挨拶が返ったきた。親父なりに気を遣ってるんだ。
「母さん台所だぞ。顔見せとけ」
軽い言い方をして視線をそっちに向ける。自分よりも、母親に先に会いに行けといった感じだ。
「うん…」
今更ながら動悸が激しくなる。母さんに会うのが、何より一番気が重い。
「ただいま…母さん…」
台所の入り口から背中に向かって声をかけた。母はくるっと振り向き、ぱぁっと明るい笑顔を見せた。
「おかえり、親不孝息子」
菜箸を置き近づいて来る。心なしか痩せたように見えた。
「仕事どう?頑張ってる?」
ポンポンと腕を叩き聞いてくる。それだけで、なんだか涙が出そうになった。
「うん…この最近、主任の補佐をしてるから何かと忙しいよ」
今日も残業をしてる主任の姿を思い浮かべて言った。母は嬉しそうに頷き、リビングで待つように言った。
「もう少しでできるから」
背中を向け、流しに戻る。側で料理の手伝いをしていた兄嫁が、にっこりと俺に笑いかけた。
「義姉さん久しぶりです。拓也、大きくなりましたね」
義姉は真奈と同い年。だから二人とも仲が良かった。
「そうでしょ。いつも元気で手焼いてタイヘンなのよ!裕君、時々帰って拓也の相手してやって」
ここは安心して帰っていい場所なんだと義姉は教えてくれる。真奈がいてもいなくても、ここは俺の居場所の一つなんだと…。
「うん…今度からそーするよ」
今夜帰った事で、俺は少しだけ気が楽になれた。こうして自分の家族との繋がりを持つことで、また一つ、心の傷が癒されてくような気もしていた。
母は急に帰ると言った俺の為に、すき焼きだけでなく寿司まで用意してくれていた。
「裕の好物ばっかだな」
兄貴が羨ましがる。気恥ずかしい俺とは対照的に、拓也はモリモリ食っていた。
「裕兄ちゃんも食べなよ!美味しいよ!」
せっつかれて食べだす。母の手料理は、胸に沁みるウマさがあった。
「うめ〜!やっぱ母さんの作る寿司はサイコーだな!」
どんなご馳走よりも食べ慣れたこの味が一番だった。今夜、俺は改めて手料理のうまさを知った。
「大袈裟な子ねぇ…一体いつも何食べてるのよ…」
呆れながらも心配する母に、担当を任されてる料理ページの話をした。母は俺の話を聞いて、大いに恥ずかしくなったらしく、明日の朝、教えてやるからご飯を作れと俺に言った。
「ええ〜それだけは勘弁してくれよ…」
折角実家に帰ったのに、ここで料理はしたくないと訴える俺を皆が笑う。その笑顔を見ながら、心がどんどん解されていくのがわかった。
(帰って来て良かったな…)
風呂に浸かりながらしみじみ有難く感じていた。そして、思わぬサプライズもあった。

「裕、ちょっと来い」
風呂から上がった俺を親父が呼んだ。両親の寝室に入ると、タンスの引き出しから封筒を出し、差し向けられた。
「母さんがお前に渡してくれって。引っ越し代だそうだ」
ポンと手の平に乗せられた。茶封筒には結構な厚みがあった。
「こんなの受け取れないよ」
反射的にそう思った。でも親父は、返すなと俺に言った。
「裕、お前は今日まで母さんがどんなに心配してたか考えた事があるか?半年前、いきなり真奈さんと別れたと言ったきり、音沙汰もなく顔も見せずにいて。見ただろう、母さんの痩せた顔を…」
ぐうの音も出ない事を言われて落ち込む。確かに、母さんの顔は一回り細くなっていた。
「お前が帰らないもんだから、母さんの方がお前の様子を見に行ってたんだぞ。何も知らんだろう?」
寝耳に水な事を言われた。親父は俺に座れと言い、自分も畳に座った。
「母さんはお前の様子を見に行っては、ハラハラし通しだったぞ。今日も青い顔してたとか、やる気なさそうに仕事へ行ってたとか、行かんでもいいとこっちが止めるのも聞かなくて。いいか裕、確かにお前達の結婚は壊れた。でも、だからと言って、周りの家族に余計な心配をかけるな。お前はもう十分傷ついて、今日やっと、ここへ羽を下ろしに帰って来たんだ。だから今度は親の言うことを聞いて、素直にこの金を受け取れ。いつまでも古い記憶に縛られて、人生を無駄に生きるな!」
生き直すチャンスを与えてもらったんだと思えと、親父は俺の肩を叩いた。社会人として仕事をしていながら、親から金を受け取ることにかなり抵抗はあったけど、今の俺にできる親孝行があるとしたら、この金を使って引っ越しすることだけだ…。
「…ありがとう…父さん。これ、使わせてもらうよ…」
短く答えながら、目に涙が浮かんだ。ぎゅっと封筒を握りしめる俺の頭を、親父はポンと叩いた。
「礼なら母さんに言え。やりくりして金を貯めたのは母さんだから」
親父に背中を押され、俺はやっと、母に対面する気になれた。台所で食器の片付けをしていた母の背中は、何処かしら疲れてるようにも見えた。
「母さん…あの…」
言いにくそうな俺の様子を見て、兄嫁が台所を出て行った。俺は茶封筒を手に、母に伝えた。
「引っ越し代、ありがとう…。大事に使わせてもらいます…。それから、あの…」
ぎゅっと唇を噛んだ。堪えようと思ったけど、やはり涙が少し出た。
「今日まで心配かけてごめん…俺、もう…大丈夫だから…」
親不孝を重ねて来た俺を、ずっと心配してきてくれた。影になり日向になりしながら、ずっと信じてくれた。
「うん、やっといい顔するようになって…お母さん安心したよ…」
余計な事は一切言わず、俺の背中を撫でてくれる。
小さい子供に返ったように、俺はいつまでも鼻をぐずつかせた…。