「あー ‼︎ 裕くん危ない!手切るよっ!」
「うわっ!」
大声にビクついて手を放した。
流しの中に落ちる包丁。思わずゾッとした。
「大丈夫 ⁈ 怪我したら大変よ、気をつけて!」
例の料理ページ担当、青木るみ先生が慌てて注意した。
「すみません、こいつの大声にビックリしたもんだから、つい…」
指を差して弁解すると、隣にいた奴はパチンと手を叩いた。
「裕くんの手元が危なかったから、教えてやっただけでしょ!」
頬を膨らませ、横を向く。主任が俺の為にと見つけてくれた料理補佐は、意外にも受付嬢の藤村だった。
あの挨拶回りの日、俺の相談を受けた主任は、呆れ顔で了解した。
「わかった。なんとか補佐してくれそうな人、探してみるよ」
料理なんかまともに出来ませんと、泣きつく俺を見兼ねて、約束してくれたのは有難いんだが…。
(よりによって、コイツかよ…)
調理スタジオに現れた藤村を見て、真っ先にそう思った。
藤村は青木先生の料理教室に通ってるらしく、その関係で主任から補佐を頼まれたと言った。
「三浦さんのお願いとあらば、聞かないわけにいかないでしょ。たとえ相手が裕くんでも」
仕方なく参加してるだけのことはある。こいつはさっきから、手よりも口ばかりを動かしてた。
「藤村、お前補佐なんだろ、少しは手伝えよ」
包丁を持ち直し文句言う俺に、藤村はベーっと舌を出した。
「イヤよ!私はアシスタント。料理するのは裕くんの役目でしょ!」
あくまでも手伝おうとしない藤村は、雑誌の表題を指差した。
「ここにも書いてるじゃない。『料理にトライ!誰にでもできるお弁当を作ろう!』って」
いかにも簡単な物しか作らないんだからと、言いた気な奴に舌打ちしながら続ける人参の皮むき。料理は家庭科の授業でかじった程度の俺には、コレすらも難しい。
「裕くん、これ使ったらいいじゃない。皮むき器。ピーラーって言うのよ」
アシスタント役の出番とばかりに差し出された道具。そんな物があるんなら、早く出せってんだ。
使い方を習い、スイスイと剥けていく皮。今までの苦労は一体何だったんだ。
「先生、この人、論外なんじゃありません?別の人が作った方が早いですよ」
時間のロスだと言う藤村の言葉に、そうかもねと調子を合わせながら青木先生は笑った。
「でも、これくらいできない人の方が、メニューを考える側としては面白いわ」
褒められてるのかけなされてるのか、いずれにしろ、俺以外に作る奴はいねーってことだ。
「裕くん一人暮らしなんでしょ?今までどんな食生活送ってたのよ」
心配してるんじゃねぇ。呆れてるんだ。
「どんなって、それなりだよ。嫁がいた時は手料理食ってたし、今はいねーから売ってる物食ってるし…」
ほっとけって感じで話すと、藤村と先生は顔を見合わせた。
「裕くんって…バツイチなの?」
信じられないという顔で藤村がこっちを指差した。
「若いのに…勿体ない」
「私と同い年でバツイチ…なんかムナシー…」
変な同情のされ方にイラつく。これだから女は嫌なんだよ。
「どんな人だったの?」
藤村が聞き返す。それに答える気にもならず、俺は無言で料理を続けた。

元嫁の真奈(まな)と知り会ったのは、大学四年の秋だった。兄貴の子供で、甥っ子の拓也(たくや)を保育園に連れて行き、そこで初めて彼女と会った。
「おはよう!たっくん!」
玄関口で子供を迎えた保育士に、拓也が大急ぎで飛びついた。
「真奈せんせーおはよ〜ッス!」
礼儀も何もねぇ。拓也は小さい頃の俺によく似ていた。
「今日はパパと一緒じゃないね。誰と来たの?」
髪を二つに結び、キョロリとした目で俺を見た。
「裕兄ちゃんだよ!パパのおとーと!」
「たっくんのパパの弟さんかぁ。じゃあおじさんだね」
そう言うと、拓也をヒョイと抱え上げ、俺に近づいて来た。
「おはようございます。初めまして。拓也君のクラスで、クマ組の保育士をしています、滝川真奈(たきがわ まな)と言います」
ピンクのエプロンを身につけた彼女は、とても元気のいい声で自己紹介した。俺は保育士と言うよりアイドルみたいな顔つきの彼女にポーッとなって、返事するのも忘れる所だった。
「お…おはようございます!叔父の松中裕ですっ!拓也がいつもお世話になってますっ!」
直立不動で挨拶すると、クスッと笑われた。その笑顔に、たちまち一目惚れしてしまった。
「あー!兄ちゃん顔まっか!先生見て見て!」
抑えることを知らない園児。俺はますます顔が赤くなるのを自分で感じた。
「あ、あの、コレ荷物ですっ!ソイツ、よろしくお願いします!」
リュックと弁当預けて、ソッコー園舎を後にした。あの時はまさか、真奈と結婚することになるとは、思ってもみなかった…。

(要するに、ガキだったって事だよな…)
一回目の料理コーナーをなんとか無事終えて、俺は自分で作ったグチャグチャな弁当を食っていた。
ゆで卵と人参の甘煮、ウインナーに切れ目を入れて焼いたやつに、緑の野菜を添える。そんな簡単な弁当でも、ノスタルジーに浸るには十分だった。
藤村は真奈の事を聞いた途端、むすっとした顔で料理する俺に反省したらしく、その後は若干口を謹んだ。おかげで俺は、余計でも真奈の事を思い出してしまった。
(俺が真奈と結婚決めたの、いつだったっけ…)
葬り去りたい過去を振り返る。確か会社に入って一年目の冬。付き合い始めて、一年近く経った頃だった。
「私ね、この間、親にお見合いをするよう言われたの…」
小さな会社の一人娘の真奈は、婿様子を貰い、会社を引き継いでいかなければならないと、いつも言われていた。
「相手の人、銀行にお勤めで融資窓口勤務なんだって…」
写真も見ず断ろうとした真奈を、両親は許してくれなかった。
「保育士になるのも、五年間だけって約束だったし、今年がその最後の年だったから…」
自由に生きることも許してもらえない。自分は一体、何の為にこの世に生きてるのかと、彼女は切なく言った。
「折角、裕と会えたのに…。恋も初めてしたのに…」
涙を浮かべる真奈のことを愛しいと思った。でも、自分はやっと社会人になったばかり。そんな俺に、彼女を幸せにできるだろうかと、不安もあった。
「…裕は…私がお見合いをしても平気…?他の人と結婚しても、何とも思わない…?」
彼女の質問は重かった。即答してやりたくても、しにくいものがあった。
「…何も言ってくれないって事は、賛成って事なの…?」
悔しそうな表情で睨まれた。瞳の中の涙は、今にも零れ落ちそうだった。
「…俺には、何もないから…」
真奈を幸せにできる確証も、地位も名声も何も無いから…と、自分を責めた。
「だから何も言えない…。真奈が見合いをすると言うのなら、止められない…」
俺の言葉に真奈の目から大粒の涙が零れた。多分、最初で最後に見た、彼女の涙だったと思う…。
「裕のバカ!止めてよっ!お見合いなんかするな、ほっとけって、なんで言ってくれないの!私のこと、どうでもいいの ⁉︎ 好きじゃないの ⁉︎」
拳を叩きつかれて泣かれた。すがりつく真奈が愛しくて、心から大事にしたいと思った…。
「俺…何もねーよ…」
真奈の涙を受け止めながら言った。
「真奈への気持ち以外、何も持たねーよ。それでもいいいのか?」
胸の中で真奈が泣きながら頷く。その時は、俺以外にこいつの事を幸せにできる奴はいないと思った。
「…だったら、結婚しようか…。真奈、お前を幸せにしたい…」
結婚の意味も何も分かっちゃいなかった。ただ真奈と二人、いれればそれで良かった…。