俺はあの夜、ミサトさんの涙にドキッとして、胸が震えた。
元嫁はどんなに寂しい思いをしてても、俺の前では決して泣かない女だったから、余計にそそられるものがあった。

(こんな風に、素直に泣いてさえくれてたら…)
後悔と懺悔が一気に押し寄せてきた。なんとか宥めたくて、思わず唇を奪ってしまった…。

(バカだよな、俺…)
ほとほと呆れながら弁当を食った。空になった弁当箱を包んでると、主任がぽそりと言った。

「裕、さっき悪かったな…」
背中越しに聞こえた声に振り向くと、主任が罰の悪そうな顔をしていた。

「お前だけが悪いんじゃないのにな…」
大切な人を、俺みたいな奴と二人きりにしてしまった。どうやらそれに責任を感じてるみたいだった。

「美里にも言われたんだよ…。お前を怒るなって…」
二人して人がよすぎる。そんな風に気を遣われると、こっちは情けなくなる。

「もういいっすよ…。いけないことしたの、俺だし…」
それは重々反省してる。朝になって彼女に焚きつけるような事言ったのも、二人に上手くいって欲しかったからだ。

「お前、もう少しやる気出してみろよ。今みたいな中途半端じゃなく、全力で仕事に取り組め。そしたら気持ちも変わるし、次の出会いも見つけやすくなるぞ、きっと」

(ホントにこの人は…一々言うことがキマってんな…)
入社当初、この人の仕事ぶりに惹かれた。本気で本作りにハマってる姿が眩しくて、目標にしようと思った。

(だからこそ、今日まで仕事も辞めずに、なんとか続けてきたんだけどな…)
ぐっと唇を噛んだ。多分今が、一番の踏ん張りどころだ。

(ここで踏ん張らないと、先はないよな…)
決意して立ち上がり、主任の方に向き直った。

「ミサトさんに、弁当美味しかったと伝えて下さい。それから…」
深々と一礼。主任はぽっかり口を開け、俺を見上げてた。

「補佐を任せて頂き、ありがとうございます。言われた通り、一所懸命取り組んでみようと思いますんで、ご指導の程、宜しくお願いします!」
心の奥から、湧き上がってくる思い。とにかく今は、ガムシャラに働いてみよう。
ポンッ ‼︎
立ち上がった主任が俺の背中を叩きながらすり抜けていく。

「頼むぞ!」
力強い声で一言発し、非常階段を降りて行く。ドアに手をかけた主任は、くるっと振り向いて付け足した。

「でもいいか!二度と美里には近づくなよ!今回は許しても、次はないぞ ‼︎ 」
ゾーッとするような声と態度で念押し。ある意味、切れ者の別の顔を見た。

「わ…わかりました。二度と近づきませんっ ‼︎ 」
姿勢を正し、背中を見送る。あの時、主任が戻って来てくれてマジ良かった…。

(もう少し遅かったら俺、その先もやってたかもしれん…)
「よ…良かった…」
非常階段で一人、俺が心底ホッとしたのは、言うまでもない。