「イチオー目は通しました。でも主任…」
文句言おうとする俺にニヤついて、主任は意地悪く言った。

「まさかできない、しないとは、言わないよな?」
笑ってるけど、目鋭すぎだろ。
顔引きつらせて黙る俺に向かって、主任は真面目な顔で付け加えた。

「このまま仕事のできない男でいてもいいけど、それじゃいつか見放されるぞ。お前それでもいいのか?チャンスを物にできる今を、大切にした方がいいんじゃないか?」
自分の補佐をしていれば、いつか報われるぞと言いた気な感じ。もっとも過ぎるご意見だ。

「それにな、最近は料理できる男の方がモテるらしいぞ!この記事の先生もそう言ってた」
指を指し、いかにも通説っぽく言うけど、嫌味にしか聞こえねぇ。これだから主任は苦手なんだよ。

「で、でもですね、主任!俺、料理は全く…」
「だから適任なんだよ!」
いかに料理しないかを説明する前に言葉遮られた。

「お前のように、普段から何も作らない男でも、美味しい弁当が作れるようになる。そういうコーナーなんだ。それに、料理出来るようになると、お前自身も助かるだろ。家庭料理に飢えてるんだから」

(完全に嫌味だよな、今の言い方…)
俺が主任に話したことを、ここで持ち出すなんて卑怯だ。確かに俺は、家庭料理に飢えている。けどそれは、自分が作る料理じゃねぇ。

「まぁ、とにかく頼むよ。こっちも合間合間で手伝うし、最近オーバーワーク気味だったから、裕が補佐してくれると助かる…なっ?」
(なっ?…て…)
甘えた言い方されても、こっちは迷惑なだけだ。でも、主任には大きな借りも作っちまってるし…。

「(仕方ない)…やります…」
とうとう言わされたって感じ。主任は満足そうに頷いて、関連記事の連絡先を教えてくれた。

「この鑑定士の聖亜さんて人には気をつけろよ。いきなりぎょっとするような事言い出すからな」
名刺を手渡しながら、主任は面白そうに言った。薄青色の名刺に書かれた『鑑定士・聖亜』の文字に、少しだけ心が動く。
これまで会った事のない異職種の人達とも、これからは付き合って行くことになりそうだ。
その後は、これまでやっていた業務と、引き継がれた仕事のアポ取りとに追われ、休む間もなく午前中が過ぎた。
昼休憩の時間になり、やれやれと背伸びしてる俺に、主任が声をかけてきた。

「裕、飯行こう」
肩を叩き、ついて来いと言わんばかりの態度。そう言えば、朝っぱらから呼び出し食らってたんだった。

(あーあ、ツイてねぇ…)
どーせ、あの事だろうと諦めて立ち上がった。自分達の部署がある五階の非常階段で、主任は手すりに身をもたれて待っていた。

「話って何っすか?」
白を切るつもりはないが、敢えて自分から言うことでもない。バレてるんなら、とっとと済ませて欲しい。
ふて腐れて悪態をつく俺の顔を、主任はいきなりグーで殴った。

「…ってぇ〜」
じんじんと頬に走る痛み。殴った本人も、手が痛そうだった。

「裕、なんで殴られたか、理解してるよな ⁈ 」
怒り通り越して冷たい感じ。ホントはこの顔が、今日の主任の本心だ。

「はい…してます…。この間の、夜のことですよね…」
主任がミスを重ねた日、俺は主任ん家で、同居人の彼女にキスしてしまった。
でも、それは、あんな夜中に、主任が俺を誘ったからいけなかったんだ……。

先週の火曜日の夜中、そろそろ日付が変わろうとしてた頃だった。ようやく仕事が校了を迎え、会社から解放された。

「はぁ〜…疲れた…」
大した仕事はしてないが、仕事してる連中に付き合うのはしんどい。ヨロヨロしながら駅に着いて、最終電車を待っていた。

「あーあ、今夜も誰もいねぇ家に帰んのか…つまんねーの…」
校了が来て、三日ぶりの帰宅だったが、俺の心は曇っていた。
半年前のあの日、あいつが出て行ってからずっと、俺は暗く、どこか冷たい家のドアを開ける毎日だった。
引っ越しすれば気分も変わる。そう思ってても、軽々しく引っ越せる程サラリーも貰ってない。貯金らしい貯金もしてねーし、親に泣きつく訳にもいかない。そんな訳で、残された選択肢は一つ。その誰も待つ者のいない家に、住み続ける事だけだ。

(でも実際ムナシーよな…元嫁と住んでた家に一人で住むってのは…)
最低な別れ方だったけど、いい時だってあった。その思い出が詰まった場所へ帰るって事は、ある意味、過去を引きずるって事で…。
イジイジと考えを巡らせてると、今朝と同じように肩を叩かれたんだ。

「どうした裕?元気ないな」
俺より後に駅に着いた主任は、話してみろよと軽く言った。
主任は俺の憧れ。弱い所なんか見せたくない。でもこの人は、

「話す方が楽になる事だってあると思うぞ」
と、優しく言ってくれた。
だからついつい、元嫁との事を喋っちまったんだ。

(あの時、主任があんな優しい言い方しなかったら、家に行く事もなかったんだ…)
逆恨みしても仕方ねぇ。やっちまったことは取り消せねーんだ。

「…すみません…反省してます…」
主任が誰よりも大切にしてる人に、無理矢理キスしてしまったのはヤバかった。
頭を下げる俺の顎を指で押し上げ、主任は恐い顔で睨みつけた。

「人の女に手を出す暇があるなら、本気で仕事するか、次の女を探せ!」
パッと指を離し、そのまま階段に座り込む。膝に抱え込んだ袋の中から取り出した弁当。その一つを、俺に向かって差し向けた。

「ほら、お前の分」
ぶすくれた顔して見せる紺色のハンカチに包まれた弁当箱。意味が分からず主任の顔と見比べた。。

「美里がお前に渡してくれって。朝飯褒めてもらって、嬉しかったんだってさ」
つまんなそーに包みを手渡し、自分のを食べ始める。丁度いい具合に風もなく、外で食べるには絶好の天気だった。

「いつまでも突っ立ってないで食べろよ。美味いから」
毎日とは言えない彼女の手作り弁当を食べる時が、主任は一番嬉しそうだった。
エッセイストと編集者、お互い気を使う間柄なのに、上手く行ってて羨ましかった。

「…いただきます…」
彼女の顔を思い出しながら弁当をパクついた。去って行った元嫁の弁当と、どこか重なって切なかった。