「ホンマ小池先生ないわー」
部活の同輩である吉岡史華(よしおかふみか)の言葉に少しびくりとする。
「そんなのいつものことじゃない」
岡部幸(おかべみゆき)はヘラッと笑って答えた。
しかし幸は内心穏やかではない。
史華は頻繁に小池先生の話をしてくる。というのも、彼女の好きな教師が小池先生と同じ物理科で、物理準備室によく行くからだ。
別に小池先生が好きなわけじゃない。別に小池先生のことなんか好きじゃない。
そう思っても、幸は史華から話を聞くたびにどこか鈍い苛立ちを感じる。

短い黒髪。日に焼けた肌。
テレビで見るイケメン俳優のような、所謂『砂糖顔』。
外向的で子供のような性格の小池先生は無論女子に人気がある。
小池先生と話しては「充電した」と言う女子生徒のことを幸は馬鹿にしつつどこか羨んでいた。

「史華ちゃんちっちゃいからって、酷くない? 」
史華が続けて言うと、幸の心臓には冷たいナイフが突き刺さった。
小池先生がちゃん付けで呼ぶのは史華だけだ。
下の名前で呼ばれているのも史華だけだと思う。
その事実は冷たく、鋭く、時にこうやって幸の真ん中を貫いた。

当の本人-つまりは幸-は『岡部』と呼び捨てにされている。
殆どの生徒が君付けやさん付けで呼ばれる中、名字であろうと呼び捨てにされるのは親しみの現れかもしれないが……幸はそれでは物足りないと思ってしまう。

「あ、今日居残りするから、先に帰ってて」
「えー? また勉強? もう幸は真面目だから……」
「いや……数学がわからないから」
その言葉は嘘ではない。だがそれ以上の理由が幸を机に向かわせていた。
「そっか、じゃあまた明日」
「うん。お疲れ」

史華と別れて階段を上り、中庭に面した廊下を通って校舎に入る。
うっすらと暗い廊下に幾つか机と椅子が疎らに並んでいる。
この校舎は使用頻度がさほど高くなく、授業中以外は自習室のようにして利用されている。

学校には自習室があるのだが、幸は自習室よりもこの空間が好きだった。
自習室よりも規則が緩いから、というのが理由の一つではある。
無論、他の理由もあるのだが。

幸は空席を見つけてリュックをおろした。
棚も照明もないただの机でしかないが、廊下の椅子が全て埋まってしまうこともあることを考慮すれば幸運な方だった。