私はまだしゃがみこんだままで、マスターを見上げる。
「・・・・楽しんでませんでした?」
私が聞くと、にこにこと笑って言った。
「いいえ。それにしても、従業員スペースに乱入の上鞄で叩くとは、なかなかの女性ですね」
ぐっと詰まる。・・・・だって、つい。
私は勢いよく立ち上がって、深深と頭を下げる。
「すみませんでした!そして・・・助かりました」
「いえいえ。詳細判りませんが、お役に立てたようで」
厨房から出てカウンターに座りなおして、私はああ・・・とため息をついた。
「逃げてるんですか?」
「・・・はい」
「どうしてですか?」
私はニコニコと微笑んだままのマスターを見詰めた。なんか・・・この薄暗い店内で黒い蝶ネクタイ姿のマスターは魔術師のように見えた。
「・・・諸事情ありまして」
「複雑なんですか?」
うーん・・・と口の中で唸る。マスターに話したところで、多分、何にも解決はしない。
私は自分の望みはわかってるし、どうしたいかも判っている。しかも、空腹にいれたジン・トニック2杯とパスタと一緒に味わったジン・トニック1杯とで酔いかけていて、説明するのが面倒臭かった。
「・・・複雑ってわけでは、ないです。至ってシンプル」
辛い恋から逃げ出しただけ。



