「じゃ、俺は作業に戻る」
「私は写真を撮りに行く!」
「休み休みにしろよ?」
「わかってるっ!」
 翠は俺より先にラグを離れ、桜の木に向かって歩きだした。
「食後の休憩は十分に取ったつもりだけど……」
 消化に使われた血液はそろそろ分散し始めてくれてるだろうか。
 翠の後ろ姿に一抹の不安を抱きつつ、イーゼルまで移動する。
 ここからなら辺り一帯見渡せるし、
「最悪貧血を起こしてもすぐに気づけるか……」
 それを保険に、俺は作業を再開した。
 一時間半ほどで予定していたところまで描くことができ、木の枝に茂らせるものを花にするのか葉にするのか悩んでいると、視界の端にいた翠が急にしゃがみこんだ。
 また足元の花にでも興味を示したのだろう。
 桜の写真を撮っていたかと思えば、急にしゃがみこんで足元の写真を撮る。そういうことをさっきから何度も繰り返しているのだから。
 今年初の森林浴はどこへ連れて行こうか。翠の受験が終わるまで遠出は難しいかもしれない。それなら近場で森林浴が楽しめる場所をピックアップしておこう。
 キャンバスから視線を上げると、翠がカメラを構えるでもなく原っぱに横たわっていた。
「っ――翠っ!?」
 すぐに駆け寄り声をかける。と、ひどく弱々しい声で、
「ごめん、貧血……」
「スマホはっ?」
「ポシェットの中」
 ポシェットからすぐさまスマホを取り出すと、血圧は七十を切っていた。
 久しぶりに見る低すぎる数値に心臓が止まりそうになる。
 翠に現状を伝えるため、そして自分が冷静になるためにバイタルを口にする。
「血圧六十五まで下がってるし脈圧もない。でも、不整脈が起きたわけじゃないみたいだ」
「ん……。少し休めば平気だと思う」
 翠が言うとおり、これはきっと物理的な問題で、横になれば血圧は徐々に上がってくる――
 そう自分に言い聞かせ、
「ラグに運ぶ」
 翠を抱え上げると、
「あのね、カメラ……無事かな?」
「カメラより自分の身体だろ?」
「でも――」
 食い下がる翠をラグに下ろし、
「少し待って」
 カメラを取りに行き、戻る過程で動作確認をする。
「一通り動作確認したけど、プレビュー画面も表示されるし、データの破損もないと思う」
「ありがとう」
「視界は?」
「まだ……」
「だから休み休み動けって言ったのに……」
 ただでさえ、今日はいつもより睡眠時間が少なく、朝から動き回っているのだから。
 血の気が引いて青白く見える翠の額に軽く触れ、
「視界が回復したら帰って休め」
「それはいや……」
「なんで……」
「だって、まだここにいたいもの……」
「春休みはまだ始まったばかりだし、ここの桜だってまだしばらくはもつだろ。また来ればいい」
「そうなんだけど……」
 翠は言葉を濁して黙り込んでしまう。
 ザッ、と風が舞い込んだとき、婚約した日のことを思い出した。
 あの日、会食ではおとなしくしていた唯さんが、帰り際に俺を捕まえこう言った。
 ――「司っちがリィから自由を奪うだけの人間になったら、俺は六年後の結婚は認めないからね?」。
 それはこういうことも含まれるのだろうか。
 翠の身体を思えばストッパーは必要だ。でも、先回りしすぎて翠の自由を奪うな――
 唯さんはそう言いたかったのではないか。
 確かに、この症状なら少し休めば復調するだろう。それに、春休みに入った今なら、強制的に今日休ませなくても明日ゆっくり休むことも可能。
 ならばここは俺が折れるべき――
 翠の頬にかかる髪を払い、額の髪を掬い上げる。
「髪、ずいぶん伸びたな」
 話題を変えると、力の入っていた翠の口元が緩んだ。
「気づいたら、学校で一番髪の毛が長い人になってた」
 それはわからなくもない。今、翠の髪は尻を隠すほどに長いのだから。
「さすがに長すぎるかな? 春休み中に切ろうかどうしようか悩んでいるの」
「どうして? きれいなんだから伸ばしておけば?」
 言いながら、手触りのいい髪を何度も梳く。
「どうしようかな……。ツカサは髪が長いほうが好き?」
 脳内で髪の短い翠を想像してみる。それはそれでかわいかったけど、
「そうだな、やっぱり長いほうが好きかもしれない」
「じゃ、どうしようかな。伸ばせるところまで伸ばしてみようかな……」
 翠の顔つきが徐々に穏やかになっていくのを見ていると、しだいに話しかけても反応が薄くなる。
 少し焦って血圧を確認したが、数値は快方に向かっていた。
 翠に視線を戻したとき、翠は穏やかに寝息を立て始めていた。
「……寝たのか?」
 その問いかけに返事はなかった。
 発熱には至ってないが、やはりそれなりに疲れていたのだろう。
 高遠さんに連絡すれば荷物は運んでもらえるし、このままマンションに連れ帰ってもいいんだが――
「幸い今日はいい天気だし……」
 俺が持ってきたジャケットをかけてやれば、ここで寝かせても問題はないか。
 それにしても、ずいぶんと無防備に寝てくれる。
「こういうの、俺の前でだけにしてくれよ?」
 気持ち良さそうに眠る翠を見ていると、思わずノートに描き止めておきたくなる。
 俺はスケッチブックを取りに行き戻ってくると、新しいページを開き、心行くまで翠の絵を描いた。
 途中、顔周りの髪の毛を三つ編みにしてみたり、原っぱに咲くシロツメ草で花冠を作って頭に載せてみたり。それはもう、やりたい放題いじらせてもらった。
 あまりにもかわいい寝顔に何度となくキスしたくなったが、キスをすれば間違いなく起こしてしまうだろう。だから、必死に我慢した。
 何枚もの絵を描いて満足感を得た俺は、翠の隣に横になる。
 あぁ、確かに。これは気持ちがいいかもしれない。何より、青い空と薄紅色の桜に視界が占領されるのは贅沢だ。
 しばらくその光景を堪能し、目を閉じ緩やかに頬を撫でていく風を感じていると、気づいたときには眠りに落ちていた――

 どのくらい経ったころか、「カシャ」という機械音に目を覚ます。と、身体を起こした翠がこちらへ向けてスマホを持っていた。
「あぁ、起きた? 具合は?」
 たずねながら身体を起こし、翠の持っているスマホを取り上げる。と、ディスプレイには寝顔の俺が映し出されていた。
 俺もたいがい無防備だな……。
 そう思った瞬間、
「削除しないでっ!?」
 必死な形相で翠に懇願される。
 俺の寝顔に価値なんてないと思うけど、好きな人の寝顔が特別なものに見えるのは自覚したばかり。
 ひとまず翠のバイタルを確認すると、いつもの数値に戻っていた。
「血圧も八十台に戻ったし、脈圧もぎりぎり二十」
 これならもう心配はいらない。
 そう思ってスマホを返すと、
「え? それだけ?」
 翠は恐る恐るたずねてくる。
「あぁ、写真?」
 コクコク頷く翠に、スケッチブックを見せるかどうか悩む。
 でもさすがに、あれだけ色々描いておいて黙っているのはフェアじゃないかも……。
 俺は近くに置いていたスケッチブックを翠の方へ放る。
 受け取った翠は不思議そうな顔をしていた。
「……俺も似たようなことしてたから」
 それだけ言うと、翠はそっとスケッチブックを開いた。
 翠は無言でスケッチブックを眺め、不規則に「え?」を繰り返す。
「え?」も何も、そこに描かれているのはすべて翠の寝顔なわけで、何をそんなに疑問に思うことがあるのか。
 間抜けな反応がおかしくて堪えきれずに笑いが口から出てしまう。
「気持ち良さそうに寝てるから、最初はそのままの絵を描いてたんだけど、三つ編みにしたらかわいいだろうな、とか。花冠載せたらきれいだろうな、とか。色々やり出したら止まらなかった。おかげでこんなにたくさん描けた」
 まだ翠が開いていないページを見せてやると、翠はさらに驚いた。そのあと、少し頬を上気させ、嬉しそうに表情を緩める。
 スケッチブックを閉じ胸に抱いたかと思うと、
「ツカサ、好き……大好きっ!」
 言って体当たりしてきたときにはかなり驚いた。
 細い身体を抱きとめ、
「寝顔描かれたのに怒ってないの?」
 翠はとっても嬉しそうに顔を綻ばせ、
「こんな絵描かれたら怒れないよ」
 こんな絵って……?
 翠にはどう見えたのだろうか。
 翠をまじまじと見ていると、一瞬で翠の顔が近くに寄ってきて「ちゅっ」と唇にキスをされた。
 不意打ちに思わず目を見開く。翠はそんな俺の反応をおかしそうに笑っていた。
 悔しい以上に、今日一日我慢していたものが振り切れる。
 俺は翠を押し倒し、驚きに口を開けている翠の口腔を蹂躙した。
 翠の舌を解放してからは、髪の生え際や目じり、耳たぶとそこらじゅうに口付ける。
 抵抗することなくキスを受けていた翠は、急に目を見開き、
「ツカサっ、外っっっ!」
 何を今さら……。
「先にキスしてきたのは翠だけど?」
 今日、嬉しそうに笑う翠を見るたびにキスをしたいと思っていた。寝ている翠を描いているときですら、その唇の感触を確認したくて仕方がなくて、寝込みを襲いそうになったほど。
 そんな俺に、キスのきっかけを与えたのはほかの誰でもない翠なわけだけど、今さら逃げれるとでも思うのか?
「今日はじーさんもいないし、ここには誰も立ち入らない」
 そう言うと、俺はキスを再開する。
 翠は観念したのか、俺のキスに応えるよう、控えめに舌を差し出しては俺のしたいようにさせてくれた。
 気が済むまでキスをすると、
「そろそろマンションに戻ろう。風が冷たくなってきた」
「ん……でも、もう少しだけ」
 翠は猫のように身を摺り寄せる。それはまるで、かまってほしいときのハナそのもの。
 俺はその愛おしい生き物を胸に抱く。
 すると、胸元から鈴を転がしたような声が耳に届いた。
「去年から、ツカサと藤山に来るといいことしかない」
「いいこと……?」
「うん。紅葉を見に来たときはたくさんお話しできたし、ツカサに初めて『好き』って言ってもらえた。今日は朝起きたときから楽しくて、嬉しいの連続で、すっごくすっごく幸せだったの」
 ……でも、
「翠、紅葉のときはひどい怪我してたし、今日だって貧血起こしたと思うんだけど……」
「マイナス点だけピックアップしないで!」
 俺の胸を叩く手を掴み、薬指にはめられた指輪を人差し指で軽くなぞる。
 翠が「もう少しここにいたい」と言ったのは、今の楽しさや幸せが終わってしまうことを恐れて、だろうか。だとしたら、
「別にここに留まろうとしなくていい。この先だって楽しいことはたくさんあるから」
 翠はほんの少し目を見開き、
「そうだよね……」
 自信なさそうに目を伏せた。
 翠の不安は、おそらく経験則からくるもの。
 楽しい時間と引き換えに体調不良を我慢するとか、どんなに楽しくてもひとり先に離脱しなくてはいけないとか――きっと、何度も何度もそういうことがあったからこそ、「最悪の事態」を想像してしまうのだ。
 時間をかけて刷り込まれたトラウマや経験則は、そう簡単に払拭できるものではない。
 そんな翠に俺ができることがあるとしたら、時間をかけてプラス思考を上書きしてやることくらい。
 翠の不安を掬いあげるのは容易なことではない。それでも、時間ならたくさんある。
 これから先、互いの命が尽きるまで一緒にいることになるのだから。
 翠、ゆっくり行こう。ゆっくり歩いていこう――