お花見の場所にはたどり着いたけれど、未だ私の疑問は解消されない。
 まだ黒いトートバッグの中身はわからないままだし、木枠がなんなのかすらわからない。
 でも、まずはトラベルラグを開いてくつろげる場所を確保するのが先決だろうか。
 そう思ってトラベルラグに手を伸ばすと、ツカサは私のいる場所から五メートルほど離れた場所で木枠を組み立て始めた。
 あれ……なんか見たことのある……。なんだっけ……?
 美術部の人がデッサンするときとかに使ってる……い、い、いー……――イーグル? 違う。それは鷲だ。い、い、いー……イーゼルっ!
 だとしたら、あの黒いバッグの中身は画材道具だろうか。
 気になった私はトラベルラグを敷くのもそこそこに、ツカサのもとへ向かった。
「絵、描くの?」
「そう。翠の誕生日プレゼント」
 誕生日プレゼント……?
「……あっ! 風景画っ!?」
「何、忘れてたの……?」
 訝しむツカサに、私は慌てて首を振る。
「忘れてないよっ!? ただ、描いているところを見られるとは思ってなかったから、ちょっとびっくりしただけ」
「ふーん……でも、描き途中のものは見せないけど」
「えっ!? それはなんだかものすごくお預けを食らってる気分っ」
「誕生日まであと二ヶ月だろ? 二ヶ月の我慢」
「むぅ……。ここで描くってことは、桜を描くの?」
 ツカサはあたりを見回し、
「そうだな、木は桜」
 その言い方に妙な引っかかりを覚え、
「どういう意味? 風景画なのだから、桜が主役でしょう?」
「なんのために翠に白い服を着せてハープまで持ってこさせたと思ってるの?」
「わからないから訊いたのに、教えてくれなかったじゃない……」
「まだわからないの?」
「……意地悪」
「別にいじめてるつもりはないけど……。絵の中にハープを弾いている翠を入れたくて」
 言われてびっくりした。
 まさか風景画の中に私を入れてもらえるだなんて。でも、絵の中に私だけではなんだか寂しい……。
「ツカサ、追加のお願い聞いてくれる?」
「だから、描き途中は見せないけど?」
「そうじゃなくて……。ハープ弾いてる私のそばに、ツカサにいてほしい……」
「……了解。じゃ、あとでふたりで座ってる写真撮って。さすがに自分を描くには写真が必要」
 私は笑顔で請合った。
「ね、描いてる途中の絵は見ないから教えて? 満開の桜の中に私とツカサを描いてくれるの?」
「……翠は新緑のほうが好きなんじゃないの?」
「え? 桜も新緑もどっちも好きよ?」
 ツカサは眉間にしわを寄せ複雑そうな表情で、
「最終的にどっちにするかは俺に決めさせて」
 言いながら、画材道具のセッティングに入った。
 私はそんな姿を見ながらベンチ前に広げたトラベルラグまで戻り、ご機嫌でハープの調弦を始める。
 もともと調弦は好きな作業だけど、今日はいつも以上に楽しくて、指先にはじかれる音まで色を纏っている気がする。
 二ヵ月後の誕生日が楽しみ……。絵、どんなふうに仕上がるんだろう。
 たとえ描かれるものが桜の花だろうが新緑だろうが、嬉しさは変わらないと思う。
 嬉しさに顔の筋肉が緩みっぱなしだ。でも、こればかりはどうしようもない。
 森林浴ならぬお花見デートも嬉しいけれど、ツカサが絵を描いてくれるのがスペシャルすぎて気分がハイになっていた。
 絵を描く環境が整ったらしいツカサに座る場所や角度を指定され、改めてハープを抱える。
 決して近くで見られているわけではない。でも、少し離れたところからじっと見られているのが感じられて、少し恥ずかしく思いながらハープの弦を爪弾く。
 曲調は明るいものばかり。心赴くままに、嬉しい気持ちをずっと弾き続けた。
 しばらくするとツカサがラグまで戻ってきて、
「さっきから陽気な曲ばかり」
 そんな指摘にだって顔が勝手に笑顔になる。
「だって嬉しいの! お花見デートもツカサが絵を描いてくれることも、とっても嬉しいのよ?」
 ツカサは少し照れくさそうに笑うと、
「お腹すいた」
 とラグに腰を下ろした。
 ツカサの腕時計を覗き込むと、すでに十二時を回っていた。
「じゃ、お昼にしよう」
 私はハープを手放しベンチに置いてあった手提げ袋に手を伸ばすと、二段のお重を風呂敷の上に並べる。
「おにぎりは、薄紫のはゆかりが混ぜてあって、真ん中の列はツカサの好きな梅おかか。右側のは野沢菜が混ぜてあるの。おかずは唐揚げと卵焼きとごぼうとにんじんの金平、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト、きゅうりの酢漬け、ブロッコリーの塩茹で、きのこ類のバター醤油炒め。それから、こっちの保冷バックに入ってるのはデザート! 柑橘類のゼリーと苺。好きなのある……?」
 少し不安になってたずねると、ツカサは珍しく驚いた顔をしていた。
「これ、全部翠が作ったの?」
「うん。そうだけど……嫌いなもの、入ってた?」
「いや、そういう意味じゃなくて――昨日電話したの結構いい時間だったと思うんだけど……」
 だからなんなのだろう……。
「あ、材料があったのかっていう話?」
「それもあるけど……」
「ん?」
 ツカサが何を言おうとしているのかわからずじっと見つめると、
「これだけの分量、朝作ったの?」
 あ、そういう意味か。
「えぇと、ゼリーとブロッコリーの塩茹で、金平、きゅうりの酢漬けは夜のうちに作って、あとは全部朝に作ったよ?」
「ちなみに、今朝何時起き?」
「四時起き!」
「がんばったでしょう?」と言わんばかりに胸を張って答えると、ツカサは呆れた顔になる。
「そこ、呆れるところじゃなくて褒めるとこ!」
 ツカサの頬を人差し指でつつくと、指先をツカサの手に包まれた。そのままツカサに引き寄せられ、ツカサの手が額へ伸びてくる。
「疲れてない? 熱が出てきたら早めに教えてほしいんだけど」
「縁起でもないこと言わないでっ! 今日は一日楽しく過ごすの! はい、ウェットティッシュとお箸」
 ツカサはウェットティッシュで手を拭き割り箸を受け取ると、きっちりと手を合わせて「いただきます」と言ってからおかずにお箸を伸ばした。
 ツカサがご飯を食べているところを見るのが好きだ。
 お箸の先一・五センチくらいしか使わず、とても上品に食べる。海斗くんみたいに大口を開けて食べることはない。
 だからといってちまちま食べてるわけでもなく、ただただ雅やかな印象を受ける。それはもう、口元を見ているだけなら女の人が食べているのかと思うほどに。
 食べている姿がこんなにも様になる人はそういないと思う。
 それを意識してしまうと、自分の箸使いはどうだろうか、とか。テーブルマナーはどうだったかな、とものすごく気になってしまう。
 それこそ、テーブルの上に鏡を置いて食べてみようかと思うほどに。
 ツカサの所作に気をとられていると、
「翠、手と口が止まってる。お腹がいっぱいになるにはまだ早いと思うんだけど」
「え? あっ、うん。食べるっ」
 箸使いあれこれが気になった私は手で食べられるおにぎりに手を伸ばした。すると、
「どれもおいしい。翠の味付け、好きだと思う」
 ツカサがぼそりと呟いた。
 私は口に入れたものをゴックンと飲み下し、
「本当っ!?」
「嘘つくようなことじゃないし」
「そうなんだけど……。作ってる最中、ずっと不安だったから……」
「不安に思う必要はないと思うんだけど」
「どうして?」
「去年の夏休みに何度か一緒に昼食作ったけど、そこで大きな味覚の違いはなかっただろ?」
 そう言われてみれば……。
「次からは不安に思う必要はないから。でも――」
「ん?」
「朝早起きしすぎ……。もっとおかずの数少なくていいし、果肉入りの二色ゼリーなんて手の込んだデザート作ってこなくていいよ。弁当作るだけで疲れてたら本末転倒。次からは外食にしよう」
「えっ!? じゃ、作るもの減らすからっ――」
 ツカサは不思議そうな顔で、
「そこ、必死になるところ?」
「なるよ! だって、色んなところに連れて行ってくれるのでしょう? それなら、私も何かしたいもの」
「それ、全部その日に集約する必要はないと思うんだけど……」
「……どういうこと?」
「外出するときは外で食べる。もしくはコンシェルジュに弁当を頼めばいい。で、マンションで会う日はうちで料理を作る。それでいいと思う」
 あ、本当だ……。
 ちゃんとバランスが取れた、なんてすてきな提案。
 私が納得したのがわかったのか、ツカサはふ、と笑みを浮かべた。