アフタヌーンティーセットが運ばれてくると、よくある三段のプレートセットに翠は目を輝かせた。
 しかし一段目のサンドイッチには目もくれず、二段目に載るスコーンしか見ていない。
「これ、サンドイッチから食べなくちゃいけないのよね……?」
 そわそわしながら訊いてくるのがかわいすぎた。
 俺はこみ上げる笑いを殺しながら、
「スコーンが食べたいならスコーンを食べればいい。サンドイッチは俺が食べる」
 翠のプレートにスコーンを載せてやると、翠はことさら嬉しそうに「ありがとう」と口にした。
 ナイフでスコーンをふたつに割り、さらに一口サイズに切り分けた翠は、クロテッドクリームと苺ジャムをたっぷりとつけて口へ運ぶ。そして、苺タルトを食べたときのように顔を綻ばせた。
「そんなにおいしい?」
 翠はコクコクと頷いて、口に入っていたものを飲み下すとカモミールティーを口に含み、幸せそうに笑った。
 その顔を見ただけで幸せな気分になれるのだから、翠と一緒に暮らし始めたら、いったいどれほどの幸せが待ち受けているだろうか、と考える。
 単純に考えて、朝起きたとき、一番に翠の顔が見られるというそれだけで、十分もとが取れる気がする。
 そんなことを考えていると、
「ツカサも一口食べてみる?」
 首を傾げてたずねられた。
 甘いものは苦手だが、翠がこんなにもおいしそうに食べるものの味が気になってコクリと頷くと、「はい」とフォークで運ばれたスコーンが目の前にやってきた。
 初めての状況にたじろぎつつ口にすると、バターが香るスコーンと濃厚なクリーム、ジャムの甘酸っぱさが絶妙なハーモニーを奏で、口いっぱいに広がる。
「おいしい?」
「おいしい……」
「もっと食べる?」
「いや、あとは翠が食べていい」
「じゃ、お言葉に甘えて……」
 翠は一口食べるたびににこにこと笑い、ペロリとスコーンを平らげた。そして、小さくカットされたケーキに手を伸ばしながら、大学の入学式はいつか、とたずねられる。
「四月六日」
「わぁ……またツカサの誕生日なのね?」
「あぁ、そう言われてみれば……」
 スケジュールの話になってふと思い出し、自分の携帯から翠の携帯にひとつのアドレスを送る。
 翠は受信したメールを見ながら、
「どうしてメール……?」
 首を傾げながらメールを開き、
「これ、なんのアドレス?」
 とさらに首を傾ける。
「いいからアクセスして」
「うん……」
「ネット上にある俺のスケジュール帳を共有した。俺の予定は青で表示される。翠はほかの色で予定を書き込んで。そしたら、互いの予定をその都度伝えたり確認する必要はなくなるだろ? ミュージックルームの使用時間も入れておいてもらえると助かる。そしたら、時間合わせて会いに行けるし」
 何もおかしなことを言ったつもりはない。けれど、翠はまじまじと俺の顔を見ていた。
「何……」
「なんか……」
 何を言おうとしているのかわからずにいると、
「卒業式の日からものすごく優しい気がして……」
「あぁ……翠が意外と泣き虫だってことが発覚したから?」
 翠は恥ずかしそうに顔を逸らす。でも――
「何、俺が優しいと困るわけ?」
 翠は顔を逸らしたまま悩みこんでしまう。
 そんな悩ませるようなこと言った覚えはないんだけど……。
 ようやくこちらを見たかと思えば、
「嬉しくなっちゃって顔が緩みっぱなしでも笑わない?」
 思ってもみない返答に虚をつかれた。しかも、言ってるそばから顔がふにゃりと緩んでいる。
 喉の奥からこみ上げる笑いを堪えていると、
「もうっ、笑わないでってお願いだったのにっ!」
 服装上、足をバタつかせることができないからか、テーブルの上で小さく手をパタパタさせている。その様がかわいくて、思わず口元が緩みそうになる。
「いや、相変わらず単純だなと思っただけ」 
「単純じゃないものっ! 好きな人に優しくされたら誰だって嬉しいでしょうっ!?」
 今度はむきになった翠に反撃された。
 コロコロと表情を変える翠を見ながら、他愛のない話で言い合える関係だとか、時間がなんとも愛おしく感じる。
「愛おしい」なんて感情、翠と出逢うまでは意識したこともなかった。似たような感情はハナにも感じるけれど、ハナに対する想いとは明らかに違う。
 そんな想いを抱きながら、
「翠がそうしてくれたように、これからは、翠の不安は俺が取り除く。ま、できることとできないことはあると思うけど……。基本的には善処する意向」
 翠は眉をハの字型にして、
「だから、どうしてそんなに優しいの?」
 どこか不安げな声でたずねられた。
「翠だって、今まで俺の不安を取り除こうとしてくれてただろ?」
 それがとても嬉しかったから、救われたから、だから同じことをしたいと思ったまで。
 なのに、どうして翠は困った顔をしているのか。
「俺が優しいと何か問題でも?」
 翠は右に左に頭を傾げながら、妙に難しい顔をしている。
「その顔、おかしすぎるから」
 今度は自分の表情が崩れるのを防ぐことはできなかった。
 表情筋が動くのを感じていると、
「ツカサ、ひどいっ!」
 立ち上がりそうな勢いで翠に抗議された。そのとき――
「涼さん、司が笑ってます……」
「本当ですね。どうやらうちの息子は、翠葉さんの前では笑うようですよ」
 もう少し翠とふたりきりでいたかった、と残念に思いながら声のする方へ視線を向けると、声の主のほか、先ほどの個室にいた全員が揃っていた。
 驚きに声を失っている翠に碧さんが近づき、
「翠葉たちが部屋を出てから一時間が経ってるのよ? なかなか戻ってこないから、澤村さんに居場所を聞いて迎えに来たの」
 翠は懐中時計を取り出し時間を確認すると、
「わぁ……ごめんなさい」
「何、謝ることはないさ。私たちも楽しく歓談させてもらっていたからね」
 静さんがフォローするものの、翠は申し訳なさ全開の顔で唯さん見ている。すると御園生さんが翠の近くまでやってきて、
「これから記念撮影をしようって」
「記念撮影……?」
「そう。翠葉ちゃんがかわいい振袖を着ているし、両家の家族が全員揃うことはそうそうないだろうからね」
 静さんの言葉に、翠は自分の振袖に視線を落とした。でも、その表情はどこか硬い。
 おそらく、写真を撮られることに抵抗があるのだ。
 ただ疑問なのは、どうしてここまで苦手意識を持っているのか、ということ。
 自身は写真を撮るのが何よりも好きなくせに。
 浮かない表情の翠を見守っていると静さんが、
「翠葉ちゃん、カメラマンは久遠だ」
 翠は顔を上げ目を輝かせた。
 どうやら、自分の大好きな写真家に撮られるのは何か違うようだ。
「途端に目が輝いたわね」
 姉さんの突っ込みに、翠は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
 この日、翠だけが微妙な顔をした写真を撮り、婚約を取り交わすための会食は終わりを告げた。