左手も開放されてほっとしたのは束の間。
 ツカサの発っした言葉に瞬きすらできなくなる。
 しばしの時間が流れてはっとした。
「へ? 婚約者?」
「婚約者って……?」
 山田くんとほぼ同時に言葉を発し、ツカサの後頭部をじっと見つめる。と、ゆっくりと振り返ったツカサの表情に、何か言ってはいけないことを口にしたのだろうか、と不安に思った。
 でも、すでに声に出してしまったし、声に出さなかったなら、この疑問は大きく膨らむ一方だっただろう。
「俺が結婚を前提で交際を申し込み、翠が了承した時点で婚約は成立したものだと思っているけど――」
「えっ!?」
 それって四月の話……?
 図書棟の生徒会室で交わした言葉は覚えているけど、あれで婚約まで成立していたの……?
 ツカサは薄っすらと笑みを浮かべ、
「えって何? それ、どこに疑問を持ったわけ?」
「えと、婚約っていうところ……?」
 小さな声で答えると、
「婚約――つまり結婚の約束をした時点で婚約の状態なわけだけど、何。異存があるとでも?」
 つないでいた右手を引かれ、ツカサの真正面に立たされる。
「……ないような、あるような……」
 もはや視線を合わせていることはできず、白々しく視線を逸らしてみたりする。と、
「それ、どっちなの?」
 有無を言わさない詰問に、
「若干あります……」
「どこら辺に」
 まじまじと見下ろされているのを感じ、恐る恐る視線を戻す。
 私は観念して、
「あれ、プロポーズだったの?」
 さっきよりさらに小さな声で尋ねた。
 でも、返事はなんとなくわかっていた。
 たぶん表情ひとつ変えずにこう言うのだ。「そのつもりだけど……」と。
 そしてそれは的中した。
 直後、ものすごく呆れた顔で、
「でも、俺にその気があっても言われた側がまったくその意図を汲んでなかったら意味がないから、もう一度言う。付き合う限りは結婚まで考えているし、そのつもりで付き合ってきたんだけど、何か異存は?」
 異存異存異存……――異存はない、かな? うん、話の中身に異存はない。けれども、不満なら多分にある。
 私は確認するように、
「だからそれ……プロポーズなの?」
 ツカサは困惑した表情で、
「何をどう話したら正解なの?」
 決して遠回りすることなく核心部分を問いただしにくるところがツカサらしい。
 でも、それに対する答えは言いたくない……。
 不満を言語化できないわけじゃなくて、できることなら察してほしい。ツカサ自身で気づいてもらいたい。
 それは相手に求めすぎだろうか。
 もとはといえば、語句の意味をきちんと理解せずに了承してしまった自分が悪いわけで……。
 そうは思っても言い訳をしたくもなる。
 あのときは、付き合う付き合わないという話に一挙一動していて、ツカサの言葉が「婚約」を指していることに気づけなかったのだ。
 悶々としていると、
「あぁ、わかった。結婚してください?」
「そんなに投げやりに言わないでっ!」
「投げやりにだってなるだろ。四月にそのつもりで会話してて、さらにはクリスマスパーティーで婚約指輪の代わりのプレゼントって指輪まで渡してるんだから」
 今までの口調よりも語気が荒く、声に熱量を感じた。
 その熱に、少しの冷静さを取り戻す。
 プロポーズをまるで日常会話のように済ませた人と、プロポーズに気づかず素通りしてしまった人は、はたしてどちらの分が悪いのか――
 そんなことを考えてしまうと、強く言える身ではない気がしてくるわけで、結果、
「そうなんだけど……婚約、とまではたどり着いていなくて……」
 若干の後ろめたさに語尾を濁す物言いになってしまう。
「じゃ、今たどり着いて。俺が大学を卒業したら入籍するよ」
 有無を言わせない物言いに、もはや「はい」以外の返事はなかった。
「俺が高校を卒業したら、もう少しきちんと形にするから」
「きちんと……?」
 ツカサは静かに口を開き、
「周りに公表するということ。つまりは婚約発表。結納とまではいかずとも、両家揃っての会食くらいはするべきだと思う」
 こんやくはっぴょう……?
 完全に思考がストップしたところで、
「まだ何かあるの?」
 何かあるというよりは、もう少しスローテンポでお願いします。
 なんていうかなんていうか――
「現実味がないというかなんというか……」
 気分的にはツカサより五歩くらい後ろに置いてきぼりを食らっている感じだ。
「じゃ、家に帰ったら三月末か四月頭に会食するって家族に伝えて。それで少しは真実味が増すんじゃないの?」
 今この時点で現実に追いついていないのだけど、それはどうしたら……。
 ツカサの腕に閉じ込められ途方に暮れていると、
「はい、そこまで。あんたここが屋外で公衆の面前ってこと忘れてない?」
 飛び切り涼しい桃華さんの呆れ声が耳に届いてはっとする。
 パチパチという薪の燃える音や周りのざわめきが聞こえてきて、ここが外であることや、公衆の面前であることを認識する。
 パニックを起こしそうになっていると、ツカサの腕を振り払った桃華さんが私の身柄を確保してくださった。
 心配そうに私の顔を覗き込んだ桃華さんは、
「新年までまだ時間があるわ。佐野んちの地下スタジオに場所移すわよ」
 私は桃華さんに連れられるまま、佐野くんのおうちの地下スタジオへ連行された。