何を思うことなく十階へ続く階段を下りてくると、ちょうど翠が主寝室から出てきたところだった。
 その姿に息を呑む。
 オフホワイトのワンピースに身を包む翠が天使に見えた。
 っ……ていうか、なんでルームウェアじゃないっ!?
 てっきり、いつもと変わらない格好に着替えるのかと思っていて、思い切り不意をつかれた気分なんだけど……。
 やばい、出会い頭ということは、今言うのか!? この、間四メートルって中途半端な距離で……?
「ツカサ……?」
「っ――」
 何を口にしたらいいのか咄嗟に判断できず、
「俺も着替えてくる」
 俺は逃げるようにしてリビングを突っ切った。
 部屋のドアを閉めてしゃがみこむ。
「出合い頭に言うのって、結構ハードル高くないか……?」
 そんな情けない言葉しか出てこない。
 翠がワンピースを着ているのは珍しくないが、普段は絶対に着ない、丈の短いワンピースだった。
 しかも、襟ぐりや袖、スカートの裾にふわふわしたのがついていて、かわいさを引き立てるというかなんというか……。
 そこまで考えて思う。
「秋兄や唯さんは、こういうの全部口に出すんだよな……」
 そんなことができる人間はすべて滅んでしまえ……。
 いつまでもしゃがみこんでいるわけにはいかず、俺は手早く私服に着替えた。
 普段の翠の行動を鑑みれば、今ごろキッチンでお茶の準備をしているだろう。
「背後からなら言えるか……?」
 いや、言える言えない以前に言うべき――
 俺は覚悟を決めて部屋を出た。
 廊下に出ると、やはりキッチンの電気が点いていた。
 背後からそっと忍び寄る。と、気配に気づいた翠がこちらを振り返った。
 咄嗟に抱きしめたものの、すぐに言葉が出てくるはずもない。
 褒めるってどうやって? 天使みたいとか口にする……?
 無理……。秋兄や唯さんに言えても俺には無理。第一そういうキャラじゃないし。
 なら、どうやって褒めればいい?
 自問自答を繰り返していると、翠の腕が腰に回された。そして、
「どうしたの?」
 心配しているような声音で尋ねられる。
 俺は熟考に熟考を重ね、自分らしいと思える言葉をチョイスした。
「今日のドレス、よく似合ってた。それから、今着てるワンピースもかわいい」
 熟考した割に素っ気無い文章だ。
 やはり、もっと具体的に褒めるべきだっただろうか……。
 悶々としていると、胸元から「嬉しい」と言う声が聞こえてきた。
「誰に言われるよりも、嬉しい」
 まるで噛み締めるように、すっごく嬉しそうな顔で言われるから、思わず顔に熱を持つ。
 やばい……これ、俺が褒めて翠が喜ぶっていうか、喜んでいる翠を見て俺が嬉しいっていう何か別のものなんじゃ……。
 不意に翠が顔を上げ、
「顔見るの禁止」
 俺は即座に顔を背けた。
 けれど、背けるだけでは左頬は防御できないし、耳も首も熱い今となっては、なんの意味もないように思える。
 どこかに着地点が欲しかった俺は、深く息を吸い込み言葉を付け足すことにした。
「いつも開口一番に言えなくて悪い。でも。なんとも思ってないわけじゃないから」
 なんてずるい言葉……。
 そうは思っても、これ以上に言えることなどなかった。
 翠はというと、何を思ったのかぎゅーぎゅー抱きついて離れない。
 何このかわいい生き物……。
 対応に困っていると、カタンとケトルが沸騰したことを伝えた。
 抱きつかれたまま、
「ツカサは何が飲みたい?」
 妙に人懐こい顔で尋ねられる。
 若干ドキドキしながら、「翠と同じでいい」と答えると、
「じゃ、フルーツティーを取ってもらえる?」
 俺は吊り戸棚から茶葉を下ろし、その場を翠に任せてキッチンを後にした。

 今日の翠、なんなわけ……?
 何度となく甘える仕草をされて、こっちは理性崩壊寸前なんだけど……。
 少しでも態勢を整えるべく腹式呼吸を繰り返す。と、トレイを持った翠がキッチンから出てきた。
 やっぱかわいいし……。
 あのふわふわしてるのちょっと触ってみたいかも……。
 翠は俺の隣に腰を下ろすと、
「これは……?」
 テーブルに置いていたもうひとつのプレゼントを指差した。
「もうひとつのプレゼント」
 すぐに手を伸ばしてくれるかと思いきや、翠はソファの脇に置いていた紙袋を引き寄せた。
「私からのプレゼントはこれ」
 渡されたのは、大きな包みと小さな包み。
 俺は大きな包みから開けることにした。
 リボンを外すと、巾着の口を開いて中身を取り出す。
 手編みと思われるそれは、やけにボリュームがあった。
 ぱっと見の形状からものを推測し、
「セーターとマフラー?」
「マフラーは正解。セーターはハズレ」
 翠は楽しそうにクスクスと笑っている。
 大物を広げると、
「ひざ掛け……?」
 それは長方形で凝った模様が編みこまれている。
「うん。勉強するときや本を読むときに使ってもらえたら嬉しい。グレーの毛糸だから、ハナちゃんを抱っこしても白い毛が目立たないよ」
 それは助かる。
「ありがとう。もうひとつのこれは?」
 テーブルに置いた箱を手に取ると、リボンを解き中身を取り出す。
 と、よくキッチンで見かけるガラス製のジャーだった。
 中には白いクリームっぽいものが入っているように見えるけど……。
「ツカサの手、少し乾燥しているでしょう? だからね、ハンドクリームを作ったの。浸透力抜群のオイルを使って、水分多めの配合にしたからベタベタはしないと思うんだけど……」
 翠の説明を聞きながら蓋を開け、ふわりと香るそれに神経を注ぐ。
「ハーブ……?」
「うん。オーソドックスにラベンダーとカモミールのブレンド。柑橘系も考えたのだけど、光毒性を考えてやめたの」
「いい香り……」
 素直にそう思えた。
 クリームを手に取ると、瑞々しいそれはすぐに手になじむ。
「ベタベタしない……」
「でしょうっ? 何度も何度も試作を重ねたんだから!」
 翠は目をキラキラと輝かせていた。
「でも、分量多くない? 使い切るのに結構時間かかりそうなんだけど……」
 確か、こういった手作りクリームの防腐剤にはグレープフルーツシードエクストラクトを使うはずけど、それを使っていたとしてもそんなに長くはもたないだろう。
 しかし翠は満面の笑みで答える。
「ふふふ、大丈夫。たぶんそんなに時間はかからないよ」
 どうして……?
 不思議に思っていると、翠がおもむろにクリームを手に取った。それは一回の分量にしてはやや多めのクリーム。
 白い手に左手を包み込まれ、思わず息が止まる。と、
「ハンドマッサージに使ったら、あっという間になくなっちゃうよ。しかも、マッサージはセルフじゃありません! 私がするから、クリームはこっちのおうちに置いててね?」
 いつになく饒舌な翠は、入念にマッサージを施し始めた。
 左手が終わって、翠がクリームに手を伸ばそうとしたとき、
「その前に俺からのプレゼント」
 早く翠が喜ぶ姿を見たくて、強引にプレゼントを押し付けた。