「ツカサ、さっき左手しかマッサージしてないから、右手も!」
 ツカサはクスリと笑って右手を出してくれた。
 クリームを手に取り丹念にマッサージをする。
 会話はないけれど、部屋にはかわいいオルゴール曲が流れているし、なんだかとても和やかで幸せな時間だ。
 十分ほどしてマッサージが終わると、ツカサは席を立った。
 トイレかなと思っていたら、戻ってきたツカサの手にはバスタオルがあった。
「お返しにマッサージ」
「え?」
「夕飯食べたばかりだから首と肩だけ」
「わー! 嬉しいっ。ツカサのマッサージ好き! 今すぐマッサージ師さんになれそうなくらい上手よね?」
「翠のハンドマッサージもいい線いってると思うけど?」
 久しぶりにツカサのマッサージを受けながら、他愛もない話をしていた。そうして話がひと段落したとき、ツカサが少しの緊張を纏ったのを感じる。
「ツカサ……?」
 背後のツカサを気にしながら名前を呼ぶと、
「翠は性行為の何が怖い?」
 訊かれた瞬間に息を呑む。
「身体に力入った。力抜いて」
 言いながら、ツカサは両肩を撫でてくれた。
「ピルを飲んでいるなら妊娠を怖がる必要はないだろ? あとは気持ちの問題だけど……何か不安なことや怖いことがあるから先へ進めないんじゃないの?」
 私はコクリと頷いた。
「その恐怖心は何に対して?」
「……恥ずかしくて言えない……」
「教えてもらわないことには俺も待ってるのつらいんだけど……」
 そうだった……待ってもらっている身としては、どんな気持ちを抱いているのかくらいは明瞭にしておかないといけない気がする。でも――恥ずかしい……。
「翠、セックスってたぶんこういうのと変わらないと思う」
「え……?」
「相手の身体に触れて、気持ちいいと思うことをする」
 言いながら、ツカサは優しく首筋に手を滑らせる。そして、何度も肩を撫でてくれた。
 どこに指圧をかけて、とかそういうことではない。ただ触れているだけ。撫でているだけ。
 なのに、ひどく気持ちがいい。
 そういえば、玉紀先生も手のマッサージから始めるでもいい、と言っていた。
 今のこれがそう……?
「翠が怖いものは何?」
 改めて訊かれ、言葉を口にする準備を試みる。
 今はツカサと向かい合ってるわけではないし、どんなことを話しても顔を見られるわけではない。ツカサに見えるのは私の後ろ姿。
 そんな保険を後押しに、
「あのね、笑わないで聞いてね?」
「もとより、笑う話じゃないだろ?」
「……飛鳥ちゃんが――飛鳥ちゃんが、初めてのとき、すごく痛かったって……」
 言葉は徐々に小さくなり、ツカサが聞き取ってくれただろうか、と不安になる。と、
「あぁ……挿入のときか」
 コクリと頷く。すると、
「そんな、入らないものを無理に入れるわけじゃないし、そこまで怖がらなくてもよくない?」
「だってっ、痛いって言ってるのに、海斗くん全然やめてくれなかったってっ――」
 そこまで言って、ここまで話してしまってよかっただろうかとうろたえる。
「海斗……どんな抱き方したんだよ」
 それはとても呆れたような物言いだった。けれど、その言葉には続きがあって、海斗くんを擁護するような言葉が続く。
「……海斗も初めてだっただろうし、好きな女を前に抑制がきかなくなるのは想像ができなくもないけど……」
「ツカサもそうなる……?」
「……その状況になってみないとなんとも言えない。でも、挿入を楽にする方法はあると思うから、そのあたりは調べてみるし、自分本位なセックスにならないように気はつける」
 その言葉にどんな反応をしたらいいのかわからなくて、私は無言になってしまった。
 すると、後ろからゆっくりと抱きしめられた。
「そろそろ待つのも限界だから、期間を設けない?」
「期間……?」
「いつまでに、って期限。もちろん、それまでには色々段階を用意するから」
 期限…段階……。
 うろたえる自分もいるけれど、ツカサのことを考えればそれは妥当な譲歩だとも思う。
 期限期限期限……。
 少し考えてちょうどいいものを見つけた。
「ツカサの誕生日は?」
「それなら卒業式は?」
「えっ!? だってあと三ヶ月もないよっ!?」
「あと二ヶ月はあるんだけど」
「誕生日がいいっ」
「じゃ、それ採用で……」
 その返事がおかしくて、少し笑った。
「今日はステップアップその一」
 え? すてっぷあっぷそのいち……?
 ツカサの腕が緩んだかと思ったら、手を胸に添えられやんわりと揉まれた。
「っ――」
「痛い?」
「痛く、はない……けど……」
「けど?」
「……なんか、ものすごくエッチなことしてる気がして、恥ずかしい……」
 一気に体温が上がった気がする。
「そもそも、セックスの予行演習みたいなものだから、それなりにエッチなことになるんじゃない?」
 ツカサは飄々と答える。でも、言われてみればそのとおりだ。
 あまりにも余裕のない自分をどうにかしたくて、こんなふうに段階を踏んでくれるツカサに感謝を試みる。
 でも、それもつかの間。
 ツカサの唇がうなじや首筋を這い始めると、全神経がそこへ集中してしまい、感謝どころではなくなった。
 でも、これは少しくすぐったいけれど、気持ちいいと感じる行為。
 胸を揉まれるのも恥ずかしさが先に立つけれど、恐怖や不快感はない。
「余計なことは考えないで、気持ちいいと思う感覚だけを追って」
 耳元で囁かれて、ぞくりと粟立つ。でも、ツカサの言葉に素直に従うことにした。
 感覚を研ぎ澄まそうと思えば思うほど、胸の鼓動を強く感じる。
 でも、ツカサと話し合って、最近はツカサと会う日は最初から携帯の設定を変えているため、誰に何を知られるという不安はない。
 それでも、何分初めてのことにいっぱいいっぱい。
「こっち向いて」
「っ無理――」
 咄嗟に拒否の言葉が口をつく。けれど、胸を揉むことをやめたツカサはそっと身体の向きを変えるよう促してくる。
 恐る恐る振り返り、涙目で見上げると、
「っ……泣くほどいやだった?」
 私はぶんぶん首を横に振る。
「や、じゃない……でも、いっぱいいっぱい」
「……よくがんばりました。もう胸は触らないから、いつもみたいにキスさせて」
 どこか優しげな表情のツカサにコクリと頷く。と、優しく優しく唇を食まれた。
 何度も口付けられるたびに、優しく労わられているような気分になる。
 それは最後まで変わることなく、ツカサの優しさを感じるキスだった。

 九時十分前になると屋上へ上がり、きれいな星空を眺めた。
 五時過ぎに上がったときよりも、周囲が暗くなって星の瞬きが強く感じられる。
「今日はイヴでもクリスマス当日でもないけれど、ふたりで過ごした初めてのクリスマスだったね」
「あぁ……これからは、予定が合う限りは毎年一緒だと思うけど」
 その言葉が素直に嬉しくて、私はツカサに身を寄せツカサを見上げる。と、気持ちを悟ったかのようにツカサがキスをしてくれた。
「大好き……」
 そう言って抱きつくと、
「翠、タイムリミット。九時五分前」
 その言葉を合図にゲストルームまで送ってもらった。
 帰宅して、ドレッサーにいただいた香水類を並べる。
 それらを眺めて幸せな気持ちに浸っていると、唯兄が入ってきた。
「何なに? 司っちからのプレゼント?」
「そうなの。香水は少しおとなっぽい香りだったけど、こっちのコロンはふんわりしたかわいい香りなのよ」
 にこにこしながら「嗅いでみる?」と差し出すと、
「リィ、これ司っちが選んだの?」
「え? ふたりで選んだのだけど……どうして?」
「だって、今日の指輪騒動に加えてこれだよ?」
 唯兄が指した場所にはコロンの名前が書いてあった。それは「FIANCEE」――
「フィアンセっっっ!?」
「今気づいたの? この鈍ちんがっ!」
 でこぴんをされて額を押さえると、
「少しは司っちの意図を汲んであげなくちゃ」
 意図って……。
 この香りを選んだのは匂いが気に入ったからで、名前までは選考理由になかったと思うのだけど……。
 でも、ツカサに限って名前をチェックしなかったとは思いづらくもあり……。
 意図していたとしても、してなかったとしても、どっちでも嬉しいかも……?
「フィアンセ」か。
 私は文字をそっと指でなぞった。
 なんかちょっとくすぐったい響きだ。
「明日もちゃんとその指輪つけてってあげなよ?」
「うん、そうする」
「じゃ、お風呂入って早く寝る準備しな!」
「うん」
 この日私は、幸せな気持ちを噛み締めたまま眠りについた。