ツカサもこのまま帰るのかと思いきや、私のかばんを持ったままエレベーターホールへ引き返す。
「え? ツカサ、帰らないの?」
「家の前まで送る」
「っ……――」
 思わず声をあげそうになって思いとどまる。
 たぶん、「ここでいい」と言っても聞くつもりはないのだろう。
 昨日もそうだったのだ。
 エントランスまででいいと話しても、玄関の前までしっかり送り届けられた。 
 これは足の怪我が治るまで、ツカサの好意に甘えることにしよう。
 エレベーターに乗ると、ほんのちょっと甘える要領でツカサにくっつく。すると、気持ちを察してくれたのか、ツカサが背後からすっぽりと抱きしめてくれた。
 嬉しい……。
「ぎゅってして?」と言えばしてくれるだろう。でも、言わなくてもしてもらえるの、すっごく嬉しい。
 頬がにまにまと緩みきっているところ、
「ピアノがホームレッスンに切り替わったの、聞いてなかったんだけど……」
 頭上で囁かれた言葉に心臓がピョンと飛び跳ねる。
「……え?」
「だから、ピアノのレッスンがホームレッスンになったの、聞いてないんだけど」
 そう言われてみれば話してなかったかも……?
 でもそれは、言わなくていいやとかそういうことではなくて、慧くんの話をしても先生の話をしても、ツカサの機嫌が悪くなってしまうからで――
 ……でもこれは、報告を怠ったことになるだろうか……。
「ホームレッスンに切り替えるって決めたのは先週の日曜日。ライブのあった日なのだけど、ツカサ、機嫌悪かったでしょう? それでなんとなく言いそびれてしまっただけ。他意はないのよ?」
 そっと顔を見上げると、ツカサは決まり悪そうに顔を背けていた。
 それ以上追求してこないところを見ると、自分の分が悪いと思っているのだろうか。
 ツカサの出方をうかがっていると、
「レッスンのとき、俺もその場にいていい?」
「え?」
「だめなの?」
「えーと……」
 あの部屋にツカサがいたとして、ツカサがレッスンの邪魔をすることは絶対にないだろう。それに、ピアノの前に座った状態だと、ソファに座る人間が視界に入るでもない。
 そこからすると、私の集中が途切れることもないわけで……。
「問題ない、かな? でも、六時からレッスンが始まって九時過ぎまでだよ? 真白さんや涼先生、心配しないかな?」
「所在は明らかにしておくし、帰りは警護班に送ってもらうから問題ない」
「……そう。でも、どうして?」
「レッスンでも、翠を男とふたりにしておきたくない。仙波さんがどういう人間なのか、俺は知らないから」
 ツカサの心配を笑ってはいけない。そうは思うけど、思わず笑みが漏れてしまう。
「仙波先生は紳士だよ」
「それを言うなら、秋兄だって見た目も触りも紳士だろ? でも、中身はあんなだ」
 それはそれでちょっとひどい……。
 起こった笑いがしだいに大きくなってしまう。
「ツカサはちょっと心配しすぎ。仙波先生、レッスンのときはとっても厳しいのよ? でも、それも目の当たりにしたらわかるよね。うん、良ければ月曜日のレッスン、見に来てね」
 そう言ってエレベーターを降りると、
「翠」
「ん?」
 振り返った瞬間にキスをされた。
「もう……また外で……」
「エレベーターの中だとコンシェルジュに見られる可能性があるけど?」
 そういう問題じゃない……とは思いつつも、やっぱりキスは嬉しい。
 願わくば、少し心構えをさせてほしかったけれど……。
 ゲストルーム前まで来るとかばんを渡され、「また明日」と言われた。
 私は少しだけ名残惜しさを感じながら、「また明日」と同じ言葉を返した。