「昨日お母様からご連絡をいただいて、ピアノを別棟に移動させたいと言われたときには何事かと思いましたけど、自宅からこちらの棟への移動だったんですね」
「はい……実は、この部屋も今日の午前中に急ぎ作られたものなんです」
「え……?」
「ここ、もともとは多目的ホールのひとつだったのですが、このピアノの持ち主、静さんが芸大を目指すなら家族を気にせず練習できる部屋があったほうがいいだろう、って用意してくださったんです」
「そうでしたか……。なんというか、さすがはホテルオーナーというだけあって、太っ腹な方ですね」
「私もそう思います」
 そんな会話をしていると、高崎さんが三人分の飲み物を持ってきてくれた。
 ツカサにはコーヒー、先生にはアールグレイ、私にはカモミールティー。
 それぞれが飲み物を口にして一息つくと、
「先ほどお母様におうかがいしたのですが、レッスンは月曜日が都合いいそうですね」
「あ、そうなんです……。火曜日と木曜日は病院で、水曜日はハープのレッスン、金曜日は週に一度の部活動の日で……」
「毎日忙しそうですね」
 先生はクスクスと笑う。
「先生は月曜日でも大丈夫ですか……? レッスンの時間が六時半以降でもよろしければ、火曜日と木曜日でも大丈夫なんですけど……」
「月曜日で大丈夫ですよ。むしろ好都合です。ライブやコンサートは金曜日土曜日に入ることが多いので。……では、時間は何時にしましょうか」
 月曜日は七限授業の日だから五時前後には帰宅できる。
「五時半以降でしたら何時でも。むしろ、先生は何時からがいいでしょう?」
「そうですねぇ……お互い、レッスン前には多少腹ごしらえしたほうがいい気もしますので……それでは六時からにしましょうか。先にピアノのレッスンを二時間。十分の休憩を挟んでソルフェージュを一時間。よろしいですか?」
「はいっ! よろしくお願いします」
 先生はスケジュール帳に予定を書き込むと
「では、今日はこれで失礼しますね」
「え? 先生、調律のお支払いは……?」
「先ほどお母様とお話をした際にいただきました。あとは御園生さんの試弾のみだったんです」
「っ……お待たせしてすみませんでした」
「いえ、調律が終わったのは五時過ぎでしたし、お母様とも一時間近くお話しさせていただきましたから、そんなに待ったわけではないんですよ」
 そんなふうに話しながら席を立つ。
 先生の見送りにエントランスへ行くと、フロントに立っていた高崎さんに声をかけられた。
「ミュージックルームの鍵なんだけど、明日の午後から指紋認証キーが使えるようになる。だから、自宅の鍵と同様の操作をしてね」
「ありがとうございます!」
「それ、俺の指紋も登録しておいてください」
「へ? 司様の……?」
 高崎さんは一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに表情を改め「承ります」と答えた。