最後に弾いたあの日とはまるで違う気持ち。翠葉を笑顔にできますように――そんな想いで弾いたけど、翠葉は笑顔になっただろうか。
 ドキドキしながら翠葉に尋ねる。
「どうよっ!」
「すっごくすっごく楽しかった!」
 翠葉は満面の笑みで拍手をくれた。
「いいな、私もこんなふうに弾けるようになりたい!」
「まぁね! 俺、二ヶ月もさぼったりしないし」
 チクリといやみを返しても翠葉の拍手はやまないし、笑顔が途切れることもない。
 今日の神様はちゃんと願い事を聞いてくれたようだ。
「そうだ、御園生さん。左手のみで結構ですのでちょっと弾いてもらっていいですか?」
 弓弦の奇妙な申し出に、翠葉は首を傾げながら応える。
 一通りスケールを弾くも、弾き方には変な癖が見られた。
 これが原因か……。だから音が不安定に聞こえたんだ。
「緊張しているから、というわけではないみたいですね」
「え……?」
「いえ、鍵盤を押すとき、少し力を入れすぎている節があるので……。そんなに力を入れなくとも、音は鳴りますよ?」
 翠葉ははっとした表情で、
「あの……今、自宅で弾いているピアノの鍵盤が重くて、それでつい――」
「それ、よくねーよ」
 俺の言葉に、翠葉は緊張の面持ちで口元を引き結ぶ。
「そうですね。鍵盤が重過ぎるのはよくない。今みたいに変な癖がつきますから。自宅のピアノメーカーは?」
 翠葉は一度口を開けたものの、何を答えることなく口を噤んだ。
「そこでなんで黙り込むんだよ」
「えぇと、私の持っているピアノはシュベスターで、とても鍵盤の軽い子なのですが、今練習に使っているのはスタインウェイで……」
「なんでそんないいピアノ使ってんだよっ!」
 もはや条件反射で答えてた。
 苦笑を浮かべる翠葉に説明を求めると、
「あの、今、知り合いのゲストルームに間借りさせていただいているのですが、そこに置いてあるピアノがスタインウェイなんです……。ピアニストの間宮静香さんをご存知ですか?」
 俺と弓弦は当然といわんばかりに頷く。と、
「生前、間宮さんが使っていらしたピアノで、鍵盤が少し重めで……」
 鍵盤の重さには好みがあり、稀にそこまでオーダーしてくるピアニストがいるという話は弓弦から聞いたことがある。
 つまりは、間宮静香もそういったピアニストだったのだろう。
「それ、今は間宮さんの息子さんが管理所有されているピアノでは……?」
「あ、そうです。ご存知なんですか?」
「そのピアノはうちが調律を担当していますから。そうでしたか、あのピアノを……。御園生さん、あのピアノを弾き続けたら身体を壊します。できることなら、御園生さんにあった調整をしたほうがいいのですが……」
 翠葉は困った人の顔になる。
「あくまでもお借りしているピアノなので、静さんの了承を得ないことにはちょっと……」
「ご相談はできるのですか?」
「はい。とてもよくしてくださる方なので。ただ、形見ともいえるピアノなので、手を入れることを許してもらえるかまではわからないです。無理なら、自分のピアノを搬入してもらいます」
「僕に連絡いただければ、調律師の手配はこちらでしますので」
「ありがとうございます」
 弓弦が胸ポケットから名刺を取り出し差し出すそれを見て、自分もこの場に乗じて連絡先の交換をしてしまおうと思った。