そして、静かな室内に響いた先生の声に、私たち以外に誰もいないことを実感する。
 先生とはレッスンで五回会ったことがあるだけで、打ち解けた感は非常に乏しい。
 そもそも、レッスンに必要な会話以外をしたことがない。
 何を話したらいいんだろう……。
 レッスン時間でもないのにピアノの話をしてもいいのかわからないし……。
 緊張を感知した途端に呼吸が浅くなる。
 深く息を吸い込むことを心がけながら、バッグからミネラルウォーターとピルケースを取り出すと、見慣れた錠剤を前に落ち着くどころか少しの不安が浮上した。
 たぶん大丈夫……。
 微熱なんてよくあることだし、もし熱が上がるなら先に帰らせてもらえばいい。目的のコンサートは終わったのだから問題はないはず。
 それに、動けなくなったとしても秋斗さんたちが大学に――まだ、いる……? 市場調査ってどのくらい時間がかかるもの……?
 念のために唯兄に連絡を入れておいたほうがいい……?
 それとも、連絡を入れるならツカサだろうか。
「御園生さん、薬飲みましたか?」
「えっ? あっ、わっ――」
 先生の声に驚いた私は、ピルケースをひっくり返し床に落としてしまった。
 拾おうとして携帯を落としかばんを落とし、慌てて立ち上がろうとした際に利き足を踏み出して、膝から崩れ落ちる。
 物が散らばる絨毯に膝をつき、駆けつけてくれた先生に支えられたところですべての勢いが殺がれた。
「すみませんっ――」
「足はっ!?」
「痛いです……」
「でしょうねぇ……」
 でも、このまま支えられているわけにはいかないし、何よりこの距離感に耐えられそうにない。
 立たなくちゃ。立たなく――……あ、れ? 立つ……?
 立つのってどうするんだっけ……。どこに、何に力を入れたら立ち上がれるんだっけ……?
 パニックに陥っていると、掴まれた腕に力をこめられた。
「御園生さん、いったん落ち着きましょう」
「えっ? あっ……」
「まずは無理のない体勢で腰を下ろして」
 言われたとおり、ペタンと絨毯に座り込む。と、重心が定まり気持ちも落ち着いた。
「ピアノを弾いているときは割と落ち着いているのに、日常におけるアクシデントには弱いんですね」
「すみません……」
「謝る必要はありませんが、もう少し冷静に対処できるようになったほうが、受験時にも有利ですよ」
「はい……」
「じゃ、まずは薬を拾って、車椅子ではなくソファにかけてはいかがですか?」
「はい」
 先生は近くに落ちていた携帯に手を伸ばし、
「液晶、割れなくて良かったですね」
 と、テーブルの上に置いてくれた。