三時を回ってマンションへ戻ってくると、エレベーターに乗った途端、翠に上着の袖を引っ張られた。
「帰らなくちゃだめ……?」
 上目遣いの問いかけに、
「どいう意味?」
「もう少し、一緒にいたい……」
 ……たまらなくかわいいんだけど、なんなの今日……。
 すぐにでも抱きしめたいのに間にある車椅子が邪魔だし、高低差がそうはさせてくれない。
 でも、その物理的な距離が少しだけ自分を冷静にさせた。
 翠の額に手を伸ばせば手のひらに熱が伝う。
 昨日ほど熱くはないけれど、確認は怠れない。
「翠、携帯」
「…………」
 翠は渋々携帯を差し出した。
 ディスプレイには三十七度二分の文字。
 微熱……。
 慢性疲労症の症状なのか、足の怪我から来ている熱なのか。どちらにせよ平熱ではないわけで……。
「……うちに来て横になっててくれるなら考えなくもない」
「せっかく一緒にいられるのに寝てるの……?」
「別に熟睡しろとは言ってない」
 翠は眉をハの字にして不服そうな表情を作る。
「申し訳なく思う必要はないし、横になってても話すことはできるだろ? それが聞けないならこのまま帰宅」
 翠は慌てて俺の手を掴みなおした。
「寝てるっ。ソファ借りて横になるからっ、だから、もう少し一緒にいたいっ」
 本日二度目のあまりにも必死な様子に負け、俺は行き先を十階へ変更した。

 翠をリビングまで運び寝室から毛布を持ってくると、ソファに座らせたはずの翠が立っていた。
「何?」
「お茶の用意……」
「座ってていい。飲み物は俺が用意するから」
「お茶を淹れるくらいはできるよっ!?」
「ゲストルームに帰されたいの?」
 翠は途端に口を噤んだ。
 キッチンでお茶の用意をしていると、翠はソファの背もたれに顎を乗せ、こちらをじっと見ていた。
 人の動きを注視しているところがハナっぽい。しかも、むくれた顔はおやつのお預けを食らったハナそのものだ。
 そんな表情もかわいく思え、「愛しい」という感情が心の奥底から湧き上がるのを感じる。
 あたたかな想いを感じれば感じるほどに、翠に手を伸ばしたくなるから困る。
 さっきは屋外だったから抱きしめるだけでとどまれたけど、今度は屋内。しかも人目を気にする必要のない家なわけで、気持ちが高まったらそのまま押し倒しそうで自分が怖くもある。
 わずかながらも前進しようとしてくれているのだから、もう少し翠のペースで、とは思う。
 でも、衝動はいつだって突然やってくる。
 こんなことをしてもなんの意味もない。わかっていつつも、冷凍庫から氷を取り出し口の中に放り込まずにはいられなかった。