冷え込む朝に金木犀が香ると心があたたまる気がしたし、疲れて帰宅した際にあの香りが漂ってくると、なんとなく心が安らぐ気はした。
 けど、金木犀の香りを嗅いで一番に感じる思いは別にある。
「金木犀の香りは好きでも嫌いでもない。ただ、懐かしい……かな」
 心があたたまるこの感覚は、「懐かしい」という思い。
 翠はこちらを振り返ったまま、「懐かしい……?」と首を傾げる。
「ばあさんが花好きで、金木犀が咲く頃にはこの奥にあるガーデンスペースで、よくティータイムを過ごしてた」
 少し奥まった場所へ車椅子を移動させると、
「奥にこんなスペースがあるなんて知らなかった」
「「まるで隠れ家――」」
 ふたり声が重なり笑みが零れる。
 小さい頃、ここでよく海斗と遊んだものだ。
 木々に覆われた狭すぎず広すぎない場所が秘密基地のようで楽しくて、わざわざ家から本を持ってきてここで読んでいたこともある。
 そこへお茶の用意をした母さんとばあさんがやってきて、昼下がりのティータイムになることが恒例だった。
「翠は桂花茶って知ってる?」
「けいか、ちゃ……?」
「そう、ジャスミンティーみたいなもの。緑茶に金木犀の花の香りを移したものが一般的だけど、紅茶でも作れるからルイボスティーでも作れると思う。お茶が二に対して、金木犀の花が一のブレンド。金木犀が咲く季節はここでよくお茶を作って飲んだんだ」
 今でも母さんと父さんは毎年ここでティータイムを過ごす。自分がその席に加わることはなくなったけれど、翠を誘うのはありな気がする。
「来年、ここでお茶にする?」
 釣れるとわかっていて尋ねると、
「するっ!」
 予想以上の食いつきの良さだった。
「翠は紅葉祭準備で忙しいかもしれないけど、合間を縫ってここでお茶にしよう」
「絶対よ? 絶対だからねっ?」
 ずい、と右手を差し出され、指切りをせがまれていることに気づく。
 必死な顔や指切りをせがむ様がかわいくて、俺は翠をつなぎとめるように指を絡め、「指きりげんまん」を口にした。
 翠は自分で用意したがるかもしれないけれど、来年の一度だけは俺に準備させてもらおう。
 きっと、ばあさんが拘ったテーブルセッティングを翠は気に入るだろう。
 真っ白なクロスをテーブルに敷き、茶器はティーポットからティーカップまでガラス製のものを使用。
 すべてはオレンジ色の小花を引き立てるための演出。
 俺は翠が喜ぶ様を想像しながら、次なる場所へと車椅子を向けた。