手洗いうがいを済ませてリビングで翠を待っていると、
「翠葉ちゃんの足、そんなに悪いの?」
 栞さんが心配そうな面持ちで訊いてきた。
「俺は階段から落ちたところを目撃したわけじゃないし、怪我自体も直接見てるわけじゃない。ただ、湿布を貼って鎮痛剤を飲んでいる割には腫れがひどい気がする」
「そうか。ま、診てみないとにはわかんねーな」
 会話が途切れたところで零樹さんに、
「高校最後の紫苑祭はどうだった? 楽しかった?」
 実ににこやかに、期待に満ちた目で尋ねられた。
 しかし、とくに「楽しい」という感情は抱かなかったし、かといってそのまま答えるのはどうなのか――。
 これが自分の身内であれば、何を考えることなく「別に」と答えるところだが……。
 返答に困窮していると、身内連中が笑いだした。
「零樹さん、司に楽しかったかどうかを訊いて『楽しかった』なんて返事が聞けた日には、雹が降ってきてもおかしくないですよ」
 秋兄の言葉に栞さんや昇さん、兄さんまで笑いながら頷く。
「へ? そうなの? じゃ、司くんはどんなときなら楽しいと感じるのかな?」 
 変なところに関心を持たれて複雑な気分……。
 どんなときなら楽しいか、なんて考えてもそうそう出てくるものではない。
 どんなときが楽しいかどんなときが楽しいかどんなときが楽しいか――。
 医学書を読んで知らない知識を得ると満足感や充足感は得られるけど……。
「俺が司の口から『楽しかった』って聞いたのは、二年くらい前に作ったゲームをクリアした直後だったかな? 『どうだった?』って訊いたら、ちょっと作りこみが甘かったところを指摘されて、そのあと『でも、楽しかった』ってぼそっと口にして」
 そんなことよく覚えてるな……。その無駄な記憶力はもっと生産性のあることに生かせと言いたい。
 このままいじられ続けるのは勘弁願いたいわけだけど、どうしたらこの話を終わりにできるのか――。
「お待たせしました」
 背後から、控えめな翠の声が割り込んだ。
 反射的に振り返って面食らう。
 翠はショートパンツにパーカーという軽装。
 さっきは上半身で今回は下半身。頼むからいい加減にしてくれ……。
 普段は露出の多い服など着ないし、学校でミニスカートを履かされたときだって激しく抵抗をしていたくせに、なんでショートパンツ――。
 そこまで考えて、翠にとってここがホームグラウンドであることに気づく。
 うっかり赤面してしまった顔をどうすることもできずに身体の向きを変えると、秋兄と目が合った。
「未熟者」と言わんばかりに笑みを深める仕草が最悪。
 いくらここがホームグラウンドでも秋兄や身内以外の人間もいるのだから、そのあたり翠は考慮すべきだと思う。しかし、この場に秋兄がいることがすでに「普通」になっているのだとしたら、秋兄はこんな格好を日ごろから見ているのかもしれないわけで――。
 うろたえる俺を気にも留めず、兄さんに促された翠はソファへと腰を下ろした。
「テーピングと湿布剥がすぞ?」
 昇さんの言葉に翠は身を硬くして小さく頷く。