翠が落ち着いたころ、テンポの速いワルツが始まった。
「これの次、スローワルツが流れるけどどうする?」
 翠は少し考え、
「踊りたい。だって、せっかくダンスを踊れるようになったんだもの。でも――」
 人の視線を集める場所、そして、ペナルティを負った人間から見える場所では踊りたくない、か。
「踊るだけならフロアへ出る必要はないだろ? ここでだって十分に踊れる。でも、足は?」
「痛い……。でも、痛い思いをしたのだから、やっぱり踊りたい」
「本当、負けず嫌いにもほどがある。今無理しなくても、ダンスが踊りたいならいつだって付き合うのに」
 翠はうかがうように俺の顔を見て、
「ちゃんと正装してくれる?」
「そこ重要?」
「私にとっては……」
「……翠もドレスを着るなら考えなくはない」
 すると、翠は嬉しそうにはにかんだ。
 泣いたあとの笑顔はどこか幼く見え、小さいころの翠の写真を見てみたくなる。
 でも、そんなことを申し出ようものなら同等の対価を求められるだろうな……。
 翠はゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えると先ほどと同じように丁寧に礼をした。それに返礼して翠の手を取ると、
「この曲、たぶんピアノで弾ける。そのくらいには何度も聴いたよね?」
 話題を変えようとしているのがうかがえて、俺は話を合わせることにした。
 翠は危うげなくステップを踏みダンスを踊る。
 さっき足を引き摺っていたのが嘘のように。 
 ダンスが終われば何を却下するものもなくなる。そしたら、翠は足を見せてくれるだろうか。
 もし見せてくれなかったとしても、制服へ着替えれば必然と見られるか……。

 チークタイムになり翠を腕に閉じ込めると、とても控えめに伝ってくる熱が身にしみる。それはまるで、幸せがしみこむような感覚。
 柔らかな体温を貪欲に欲すると、腕に力をこめるだけに留まらず、裸で抱き合いたいと思うわけで……。
 翠は今、何を思っているだろう。何を感じているだろう。
 相手の体温をこんなにも意識するのは俺だけなのか――。
 そっと翠の表情をうかがい見ると、翠は嬉しそうに表情を緩めていた。
 その様は、ダンスというよりは音楽を楽しんでいるように見える。
「この曲、好きなの?」
「……どうして?」
「顔が嬉しそう」
「この曲が好きというよりは、このアーティストが好きなのかな……。湊先生の披露宴で、ファーストワルツに流れた曲もスティーヴィーワンダーの曲だったでしょう?」
「覚えてない」
 翠はクスリと笑い、
「あの曲は好きで覚えていたのだけど、この曲は、曲名まで覚えてないの」
 そんなカミングアウトに今度は俺が笑みを零す。
「じゃ、あとで曲名を調べよう」
「ツカサも好き?」
「悪くない」
「やり直し」
「……割と好き」
 和やかな会話に穏やかな笑顔。
 守りたいものはそれほど多くも大きくもないはずなのに、守りきれていない現実が歯がゆくてたまらない。
 何をどうすれば翠を守ることができたのか、怪我をさせずに済んだのか――。
 そんなことを考えている反面、心を預けるように身を預けてもらえることが嬉しくて、このままずっと抱いていたいという気持ちばかりが募っていく。と、
「ツカサ、未来の私たちは今日の私たちをどんな気持ちで振り返るのかな?」
 翠も去年の後夜祭を思い出していたのだろうか。
「さぁ……未来のことなんてわからない。でも――」
 翠と視線を合わせ、
「俺は間違いなく翠の隣にいる」
 もうひとつ言い切れることがあるとすれば、未来の自分が今日を振り返ったとしても、色褪せることなく翠の笑顔を思い出すことができる。そして、不甲斐ない自分と翠の泣き顔ももれなく思い出すだろう。
「そうだったらいいな」
 再度頬を胸に寄せられ、
「……翠」
「ん?」
「キスしても?」
 学校だからだめと言われるだろうか。
 懇願するように翠を見ていると、翠はゆっくりと俺を見上げた。
 まるでキスを乞うような表情に、
「それ、いいように受け取るけど?」
 翠は小さく頷き、俺はそっと翠の唇に自分のそれを重ねた。
 少し冷たい翠の唇と、熱を帯びた自分の唇が溶け合うような感覚に酔いしれる。
 一年前の今日、キスは想いを伝えるための術だった。気持ちの通わない一方的すぎる行為だった。
 きっと「想いを伝えるための術」というのは今も変わっていない。でも、それがきちんと翠に伝わっているのかはわからなくて――。
「好き」は言葉にしないと伝わらないものだろうか。俺はいつまでここに立ち止まったままなのか――。
 躓いたまま先に進めない自分は翠とさして変わらない気がした。