『戻らなくていいの?』
『……戻レルナラ、トックニ戻ッテル』
『そっか。……大丈夫。きっと戻れるよ』
何が大丈夫、戻れるよ、だ。
現に今、月の光も満足に届かない谷底で喰われようとしているではないか。
それもあっさりと心を奪われて。
振り上げられる妖孤の大きな前足から覗く爪に、小鬼は萎縮し目を瞑った。
八つ裂きだ。
そしてまたこの妖孤は力を増し、四方の神社仏閣を荒らしまくるのだろう。
なんて嫌な結末だ。
こんなことなら、寧々の言葉を信じずにさっさと自分が喰ってやれば良かった。
死を覚悟した小鬼は、寧々の小袖をギュッと掴んだ。
ーーその時だった。
一陣の風と共に目の前に何かが降り立つ。
同時に波が引くように晴れて行く瘴気に、寧々が徐に瞼を持ち上げた。
藍色の着物の裾と草履を履いた裸足が見える。
視線を上げれば、そこにいる。
「ふふっ……ほらね……。大丈夫って……言ったでしょ……?」
あの日と同じ。
地獄の淵まで迎えに来てくれた、夜色の妖。
嬉しそうに頬を緩めて笑うと、寧々は糸が切れたように意識を手放した。
その傍で、小鬼は大きな一つ目を白黒させる。
まるで死者や幻の類を見るかのような目でかの妖を見上げ、呟いた。
「一角鬼……」
妖孤の瘴気を一瞬で薙ぎ払う、凍て付くような強大な妖気。
その妖気の主に相応しい氷のような双眸と視線が交錯し、余りの恐怖に気を失い背後に倒れる小鬼。
冷たい双眸はやがて徐に妖孤に向けられ、藍色の瞳の中に毛を逆立て牙を剥く姿が映し出される。
凍て付く瞳を前にしても消えることのない、赤い瞳に燃える憎悪の炎。
金色の妖孤は恐れることなく、夜色の鬼へと鋭利な爪を振りかざした。
「オ、ニ……フゼイガ……!」
唸り声のように吐き出された人語に、静は「ほう」と感嘆の声を漏らす。
「喋れるのだな………」
岩肌を抉る爪を見て、静は薄らと口を開く。
光る牙。
ーー刹那、妖孤の鋭い爪は根元からずるりと引き抜かれ、苦悶の咆哮が大気を震わせた。
血の滴る巨大な爪が静の口元を飾る。
抜き取った爪を手に取り、谷底まで仄かに届く月明かりに透かした。
「……まるで金剛石だな……」
ぽつりと呟き、静は妖孤を見た。
憎悪に狂った、金色の毛並みに宝石のような牙と爪を持つ妖孤……。
ーー殺すには、惜しい。
「ふん……」
微笑する。
あの馬鹿な娘が何故こんな所までのこのこと付いて来て、挙句心を許したのか……。
そして、この狐を殺せばどんな表情をするのか……。
ふわりと微笑む寧々が脳裏を過ぎり、静は手元から煌めく爪を手放した。
「ーー去れ、狐。二度目はない」