小鬼は寧々の背後で怪訝そうに顔をしかめる。

瘴気に満ちた妖孤を前にして可哀想とは、この人間の小娘の脳味噌は腐り落ちてでもいるのか。

妖孤は人を喰らう。

死肉を糧とすることが多いが、欲深い妖孤は生きている徳の高い人間や子供、生娘を好んで喰らい己の力として昇華させる。

目の前の妖孤は恐らく後者。

血の臭いが染み付いている。

わざわざ忠告してやったのに愚かな人間だ。

夜明け前には腸を貪られ魂を喰われているだろうと、小鬼は見切りをつける。

哀れな小娘。

今から自分が喰われるとも知らず、情けを掛け涙まで流すとは。


「……あのね。私、あなたが襲った村に住んでたんだ」


徐に、寧々は口を開いた。


「森にあるお狐様の地蔵が壊れていたの。だからきっとあなたが怒って村を襲ったんだって……私が生贄になったの、知ってる?」


理性を失った妖など獣と同じ。

言葉など通じるものかと小鬼は鼻で笑うが、寧々は反応のない妖孤を真摯に見つめ続ける。

生臭い息が鋭い牙の間から漏れる。

寧々の顔よりも大きな前足から覗く金剛石のような爪は、いつ寧々の体を八つ裂きにしてやろうかと機を窺う。


「ーーねぇ、お狐様? あなたが何をそんなに怒っているのか、私に教えて」


爛々と憎悪に燃える赤い瞳。

靡く金色の毛並みは、まるで稲穂のよう。

以前見た時は二本だった大きな尾は、今では三本になっている。


ーー嗚呼。

どうすれば私はあなたを救えるの……?


恐れるのは簡単だ。

嫌悪するのも簡単だ。

理性のない相容れぬ化け物として一蹴するのもとても簡単。

でも、知りたい。

お狐様と崇められるべき存在の妖が、何故自我を保てなくなる程に怒り狂ってしまったのか。

可哀想ではないか。

きっと何か訴えたいはず。

叫びたいはず。

抱え切れぬ程の憎悪が魂を焼き尽くしてしまう前にーーどうか、解放されて欲しい。

ちり、と胸に走る熱さ。

踏ん張っていた足元が崩れ、寧々は倒れ込む。

黒いものが心に流れ込んで来るような感覚と、全身が鉛になってしまったかのような倦怠感。

苦しい。

背後で小鬼が舌打ちをするのが聞こえた。


「瘴気ダ! ダカラ下ガレト言ッタンダヨ、馬鹿ガ」


容赦なく罵ってくる小鬼に答える気力すらなく、寧々は荒い呼吸を繰り返す。


ーーニクイ。


「……え……」


不意に聞こえた知らない声に、寧々は胸に手を当てた。


ーーニクイ。


ほら、また聞こえる。

言葉が聞こえる度に心臓が締め付けられるような圧迫感。

直接心に訴え掛けるようなこの声の主は、妖孤だろうか?


「お狐……様?」


見上げてみても、そこにいるのは反応のない憎悪に満ちた妖の姿。

しかし語り掛けてくる声は止まない。


ーーオマエモ、クロイ。
ニクイダロウ……ユダネロ、コムスメ。


「黒い……? 委ねるって……っ、う……!」


心臓を掴まれたような感覚に、遂に寧々は地面に伏せる。

目を見開き荒い呼吸を繰り返す寧々に、小鬼は「耳ヲ貸スナ!」と叫ぶ。


「無垢ナ魂ヲ堕トスコトデ、甘美ナ味ガ出来上ガル。心ヲ閉ザセ、小娘。喰ワレルゾ!」


地面に転がる寧々に駆け寄り声を張り上げる小鬼の声も、寧々にはほとんど届いていない。

「クソッ」と吐き捨てる。


「ダカラ人間ハ嫌イナンダヨ!」


脆弱過ぎる肉体と精神。

少し心の闇を突けばあっという間に転がり落ちる。

愚か過ぎて吐き気がする。