彼がいそうな場所は一つしか知らない。いつも彼を見かけていた、今は使われていない古いビルの前。そこにいなかったら諦めよう。

 吐く息が白く宙を漂う。

 少しの緊張と期待。

 向かう足はやや速い。

 歩き慣れているはずの道が遠く、長く感じる。時々横切る風の冷たさに体を震わせて、傘の柄を持つ両手をきつく握り締める。

 静かな夜中、道路を挟んで向かい合うアパートとビルはどれも眠っているみたいで、私も自然と息を潜めていた。

 そうしてあの古いビルがある通りまで来て、足取りがさっきより遅くなっていることに気づかないふりをして私は顔を上げた。

 …瞬間、足が完全に止まって、どうしてか泣きたくなるくらい切なくなった。目頭がじんわり熱く、頬を撫でる雪の冷たさなんて気にしなくなって、鼓動の速さに感情がうまくついていけない。

 誰にも言えない淡い気持ちを秘めて通りすぎていた。その彼が今日も同じ姿勢で、同じ表情で、同じ仕草をして、誰かを待っている。

 私はゆっくりと歩き出し、彼の方へと向かう。

 彼は前を見つめたままで、私に気付いていない。

 私の目にはもう彼しか見えない。きっと、これが恋。きゅっと締め付けられた切なさを、そっと胸に抱いて、私の足はゆっくり、だけど確実に進んで…。

「レイ」

 傘を傾けて彼と目線を合わせるように屈んだ。グレーの瞳に私が映る。その瞳がわずかに揺れて、悲しげな表情をした彼はまさしく『迷子の子猫』だった。