緩和ケア病棟は、完全個室性。家族も宿泊可能。でも、河本さんには家族がいなかった。
「若い頃に離婚したんです。子供が一人いたけど、主人が手放さなくて…。以来、ずっと独身で、独り住まいです…」
ポツリポツリ、区切るように話す声を聞いていた。
彼の胸の中で、思い切り泣いた日から三日後、私は話し合いの場に立ち合っていた。
「異変は、半年くらい前から感じていました。早くに検査を受けて下さればと、お思いになるかもしれませんが、手術や治療をしてまで、生きたいという意欲はありませんでした…」
食欲は減り、吐き気や嘔吐に襲われる。それでも、自宅での生活を続けたかったと、河本さんは語った。
「でも、私も独居ですから、周囲の方に迷惑をかけてもいけませんしね」
諦めて人間ドックを受けた。再検査の声がかかり、やはりそうか…と思ったそうだ。
「最期を看取って頂くなら、自分が務めたナース達のいる病院がいいと思いました。入院は致しますが、進行を遅らせるような治療や手術は必要ありません。鎮痛剤も、我慢が効くうちは、極力施して欲しくありません…」
ハッキリとした意思表示。担当医が渋い顔をした。
「河本様、当院には緩和ケア病棟もありますが、一般病棟とどちらを選択されますか?」
主任ナースの問いかけにチラリと私の顔を見た。そして、ゆっくりとこう答えた。
「どちらでも構いません。静かな方で結構です」
「治療や手術はしない、温存のままで行くと言われるのなら、緩和ケアの方が意思に沿った支援ができますが、入院費用は高額になると思います。それでもいいですか?」
担当医の言葉に頷かれ、宜しくお願い致しますと、うな垂れる。
その深い敬礼に、私達スタッフの方が頭の下がる思いだった。

「玲良ちゃんは、外科のナースなの?」
話し合いの後、病室まで案内するように頼まれた。その道すがらの質問だった。
「はい。私としては、緩和ケアを希望してたんですけど、年齢も若いし、経験が浅いからまだ無理だと言われて。でも、河本様には会いに伺います。なるべく時間を見つけて」
一日一回は、この方の顔を見て、言葉をかけ、笑顔を作りたい。私に会うことで、少しでも安心してもらいたい。
そうする事で、何かしらご恩返しができたら…。
「自分勝手な妄想だよね…」
昼休憩。中庭のベンチで彼に電話。秋の日差しは強くて、やっぱりまだ暑い。
「そんな事ないよ。何より実行。そうだろ?」
何もかもお見通し。本当にこの人、私をよく知っている。
「何かあったらソッコーで連絡してくるように!この前みたいな小細工、もう必要ないから」
結構プライド傷ついたんだぞ…って、今更のように本音言ってる。なんだかんだ言って、自分も素直じゃないとこあるんだ。
「うん、もう無理しない。ありがとう」
いつもいつも、私を助けてくれてありがとう。貴方がいるから、今日の私がある。
「お礼言うなら藤堂先生に。あの経験が役に立っただけだから」
親以上に世話になった大切な人。だからこそ、亡くなった時、相当ショックだったと話していた。
「私、河本様にご恩返しできるかな…」
小さい頃、泣いても泣いても埋められなかった悲しみを、彼女の言葉が救ってくれた。その深い慈愛の念に触れ、あの方のようになるんだと心に誓った…。
「できるよ。心を込めて尽くせば」
彼の言葉に、しみじみナースになって良かったと思った。できる事は限られるかもしれないけど、あの時の河本様のように、心を照らす存在になりたい…。
「うん、頑張る」
私の言葉に「自然体で」と言い残し電話は切れた。
眩しい光の中、心がスッ…と軽くなった。