「……あの、敬語、使わなくていいですよ。俺のが年下だし」

 道具を手入れしていたという事には何も返せずそう言うと、テツはぶんぶんと大げさに両手を振った。

「いえいえ! 左官店(ここ)は俺のがずっと短いっすから! それに、ちゃんとしないとねぇさんに怒られちゃうし……」
「ああ、確かに。そういうのうるさいですからね、姉ちゃんは……」

 気の毒そうに言うと、テツがぷっと噴出した。

「家でもやっぱ怖いっすか、ねぇさん」
「怖いなんてもんじゃないですよ! ちょっと寝坊しようもんなら余裕で腕ひしぎとか決めてくるし……!」
「腕ひしぎ!? ひでぇ!」

 ひでぇ、と言いながら、テツは憚る事無く大爆笑だ。

 それにつられて、翔一の顔も自然と綻んだ。

 こんな兄貴がいたら楽しいのかなと思うのは、自分勝手が過ぎる気がして考えないようにした。

「……でも俺、ねぇさんにはほんと感謝してるんす」

 ひとしきり笑い終えると、テツの表情に少しばかり影が落ちた。

「俺、中坊のあたりからすげぇグレちゃって。高校も何とか入ったんすけど……あ、あれっすよ、答案用紙に名前書けば入れるようなとこっすけど」

 バツが悪そうに笑うテツに、翔一もぎこちなく笑う。

 突然の話に聞いて良いものなのだろうかと戸惑ったが、テツが自分から話し始めたという事は聞いても差し支えないのだろうと何も言わずに耳を傾けた。

「でもまぁそんなんで高校でも喧嘩ばっかして。結局退学くらって、俺、ここには親に無理やり入らされたんすよ、はじめ」

 テツがここへやって来た経緯は、三重子とあかねが話していたのを聞いた事がある。

 手の付けられない子供に親が手を焼いて、知り合いのツテで半ば放り投げられるように託されたのだと。

「……嫌じゃ、なかったんですか」

 ほとんど反射的に訊き返していた。

 嫌だったに違いない。そう解っていて、それでも訊いていた。

 テツと自分に大きな違いがあるのは一体どうしてだろう。


 ――こんなところ、やりたくてやってるんじゃないのに。
 レフトなんて自分の居るポジションじゃないのに。


「そりゃあ嫌だったっす、ぶっちゃけ」

 『やらされる』ことのどんなに苦痛な事か。それは翔一にも痛いほど解る。

 だが、テツはこうして前を向いて成長しているではないか。

 後ろを向いて、逃げ出した自分とは大違いだ。

 その差異が何なのか、知りたくなった。

「でも、あれいつだったかなぁ。俺、こんなとこ来たくて来たんじゃねぇって言ったんすよ、ねぇさんに。そしたら、ねぇさん、それまでも怖かったっすけど、そん時はほんとにめちゃくちゃ怒って、もう泣きながら怒るんすよ。アンタがひねくれんのは勝手だけど、あたしはアンタの親だからそれを知らないフリする訳にはいかないって。アンタが自分で気付くまで、見放す訳にはいかないんだって」


 泣いた? 姉ちゃんが?


 目を丸くした翔一に、テツは僅かに笑った。

「驚きました?」
「そりゃぁ、まぁ……。父ちゃんの葬式でも泣かなかったから……」