「健ちゃん、もう一度考え直したら?」美樹が言った。そして、レースのカーテンが引かれた窓に目を向けた。そう言った後、美樹は健一の返事を待っているかのように口をつぐんだ。そして、黙って窓の外を見つめた。健一も黙って手にしているコーヒーカップを見ている。轆轤(ろくろ)の上に形を現わし始めたカップ形の造形をいきなり切り取って、濃い茶色の絵の具を荒々しく塗り付けていく。渦巻く情念を白い絵の具付けた絵筆の中に閉じ込めて、その発露を求めたかのように激しく筆を走らせたら、きっとこんな文様になるに違いない。その荒々しい筆のタッチは、激しく揺れ動く今の健一の気持ちを象徴しているかのように思えてくる。
美樹は健一の方を向いて、思い出したように、「先日話した時には私も興奮していたからきついこと言ったけど、でも、あれは私の本音よ」と呟いた。
「分かっている」健一はそう言って、コーヒーカップを口に運んだ。モカ特有の渋みのある豊饒が口一杯に広がる。
「先日も言ったけど、私は健ちゃんが行く場所を基点にして、自分が行くべき場所を決めた。それなのにあなたはその場所に行かないという。でも、冷静に考えてみたら、それはそれで仕方がないことかもしれない。何故なら、それは私が決めたことだし、あなたの道はあなたが決めることなのだから。
ただ私は、健ちゃんが志望校を選び、決めた時のことを思い出して欲しいの。第二志望校だってあなたが選んだ大学のはずでしょう。その選択には、第一志望が駄目だったら其処に行くという前提があったはずなのよ。それがない第二志望なんてあり得ない。悔しいのは分かる。でも、行くつもりがないなら、初めから受けなきゃいいんだ。そう言う意味で「滑り止め」という言葉は、本来受験の世界にはないと思うの。
私は立ち止まるより、少し位自分の希望と違っても進んだ方がいいと思う。そうしないと何も生まれない。其処で立ち止まっても無駄のような気がしてならないの。それどころか健ちゃんみたいに完璧を求めるのなら、何度も同じことを繰り返してしまうような気がしてならないの」
二人は「シアンクレール」という名の喫茶店にいる。木製の椅子とテーブルが配置された店内には、イエペスが奏でるクラシックギターが静かに流れていた。二人は二階の窓際の席に座っている。其処から見る栄町アーケード街は、絵画の町のように空虚で、欠伸(あくび)がでそうな通りを、数人の人間が通っているだけだ。美樹は、閑散とした眺めが二人の会話を更に空疎にしているような気がした。
健一はコーヒーカップを戻した。美樹の前にはレモンスカッシュとイチゴショートが置かれている。美樹は言いたいことを言って、ほっとしたのか、おちょぼ口でストローを銜えた。そして、頬をへこませて勢いよくレモンスカッシュを吸い上げた。レモンの爽やかさが口一杯に広がる。美樹の頬が緩んだ。美樹は白いブラウスを着ている。襟元に小さな赤いリボンのワンポイントがあって、健一はそれにイチゴショートのイチゴを重ね合わせていた。襟元に覗いている白い肌が、紅潮しているように、ほんのりとピンク色に染まって見える。
「多分建ちゃんのお母さんは、健ちゃんに今年大学に入ってもらいたいと思っていると思うわ。うちのお母さんにそう漏らしたんだって。だって浪人って、大学の一年間と同じ位の費用が掛かるんでしょう?真奈美ちゃんのこともあるし、費用だけを考えてもダブって欲しくないのが本音じゃないの」
「本当にお袋がそんなこと言ったのか?」健一が尋ねた。
「らしいよ。詳しくは聞かなかったけど、私のお母さんにそう言ったんだって」
「僕には一浪はヒトナミとか言ったんだけどな」健一は呟いた。
「何を脳天気なことを言っているのよ」と美樹が言った。「お母さんはあなたの夢を叶えてあげたいと思って、そんな言い方をしただけじゃないの。本心は違うと思うわ。自分を納得させようとして、そんなこと言ったのよ。そんな言葉を本気にする方がどうかしている」
健一は、先日の気まずい親子三人の話し合いを思い出した。思い出すだけで苦い汁を飲んだような気になってくる。あの時、確かにお母さんは話の合間に、じっと何かを考え込んでいることが多かった。お母さんは俺に浪人をさせることの是非を考えているのだとばかり思っていた。でもお母さんは、それだけではなく真奈美のこと、家計全体のことなどを一緒に考えていたという。考えてみれば、当たり前のことだ。だが、そんな当たり前のことにさえ、俺は気付いていない。脳天気に自分のことだけしか頭の中にはない。幼稚とそうだし、一途と言えば確かにそうだ。いずれもしても、要するに、馬鹿なのには違いない。
健一はコーヒーを一口啜(すす)った。熱い。そして、やけに苦かった。
考えてもごらんよ。これまであんたに好きなようにさせてくれたお父さんとお母さんが、初めて第二志望でいいじゃないかと言っているんだよ。美樹もお母さんの本心を教えてくれた。それなのに、あんたは、まだこだわり続けている。固執しようとしている。何に?何故?何の為に?そうすることにどんな意味があるのか分かりもしないものに。青春の情熱か?損得だけでは計れない生き様か?それにしても、理由が何であれ、多分一生結論が出ない価値観をベースにした判断に、どんな意味があるのだろう?何だか大切な意味がありそうで、その実(じつ)何の意味もないことではないのかい?あんた成績良かったんだってね。だから、あんたの行くべき所は、京大じゃないといけないのかい?そう思っているんだろう?でも、一杯いるんだよ。あんた位の人間なんて。世の中には掃いて捨てるほど大勢いるんだよ。自己満足の世界なんだ。それだけなんだよ。あんたがやろうとしていることは。そんなあんたをナルシストと言うんだよ。そのナルチシズムにあんたは固執しているだけなんだ。
健一は小さく頭を振った。そして、「美樹はそれでよかったのか?」と尋ねた。
「何が?」美樹が怪訝そうに言った。
「僕が行きたい大学がある地域にある大学を選んだって言っただろう。美樹は志望校を決める時に、そんなことで自分の一生の大事な選択をしたのか?本当にそれでよかったのか?それに疑問はなかったのか?」
「嘘じゃないわ」美樹が笑いながら言った。「でも、みんな本当でもない」
健一は美樹を見た。悪戯っぽく黒い瞳が輝いている。
「半分本当のことで、半分は嘘。私ね、それを自分の目標にしたの。自分が自分に負けそうな気がしたから、自分の中に絶対に叶えなければならない目標を作って逃げ道を塞いだの。やるしかない。その状況を作ったのよ。そうすれば私は頑張れるから。それが健ちゃんと同じ場所にある大学」
美樹はそう言って半分に切ったイチゴをケーキと一緒に頬張った。
「でもね、健ちゃん、それは私にとって大切な、でも厳しい選択だったんだよ。大げさに言えば私の青春を賭けたチャレンジだった。私が高総体の後、完全にテニスから身を引いたのを知っているでしょう。私の青春そのものだった部室に一歩も足を踏み入れなかった。だって、難関校なら少なくとも高二から本格的な受験体制に入らないと合格は難しいっていうでしょう?私の大学が難関校かどうかは知らないけど、私の場合、本格的なスタートは高総体が終わってからだったから。私は、全てに目を瞑って目標に立ち向かうしかなかったんだよ」
「俺だって頑張ったさ」健一が口を尖らせた。
「知っているわよ。誰も頑張ってない、なんて言ってない。小さい時から頑張っているのを知っているからこそ、その結論に満足すべきじゃないのって言っているのよ。これがこれまでのあなたの人生の一つの集大成じゃない。そうでしょう?だからこそ、それに満足するべきじゃないの?」美樹はそう言ってもう一度窓の外を見た。美樹は直ぐに目線を戻すと、レモンスカッシュのストローを咥えた。「酸っぱい」美樹は顔をしかめた。そしてもう一度窓の外を見やった。
「ケーキにそんなの頼むからさ。当たり前じゃないか」
健一はそう言って笑いながら、窓に顔を向けた美樹の端正な横顔を見ていた。少し乱れた前髪が額のあたりを隠している。「何時の間にか綺麗になったな」健一はそう思った。カモシカのような引き締まった身体を純白のテニスウェアに包んでコートを走り回っている美樹の姿が目に浮かんだ。ボールを追う俊敏な動き。迸(ほとばし)る汗。美樹が相手のボールをライン一杯に打ち返してゆっくりと前に出る。相手のボールは美樹が予測した通りに力のない弧を描いてコートの前方に上がる。美樹の体が獲物を狙うヒョウのように一瞬の爆発に備えてゆっくりと反(そ)る。しなやかな腕の振りに全身のパワーが凝縮する。スマッシュ。弾ける笑顔とガッツポーズ。それはまさに青春の輝きそのものだ