女性はもし時治がちゃんと鐘をならしていたらその武士とはぶつからなくてすんだんだといって時治をにらみ去っていった。時治は悔やんだ、確かに鐘を時間通り鳴らしていたら男性は死なずにすむばかりかあの女性と幸せになっていたかもしれない、仏に遣える身の自分が直接ではないにしろ、人を不幸にしてしまうとは。時治はその男性のためにせめて成仏するように一生懸命お経を唱え、お墓を作り葬った。それからというもの時治は時間がくればきっちりと鐘を鳴らすようになったばかりか更に細かくなり、小さい鐘をもう一つ作って一時間を知らせる鐘は今までの鐘をその鐘から三十分がたつとあたらしい小さい鐘を鳴らすということをはじめた。(例えば一時は大きい鐘で一時半は小さい鐘で二時はまた大きい鐘という感じである)もちろん寸分の狂いもなく毎晩遅くまで続けて生きている限りずっと続いた。そして周りの住民はそのおかげで生活のリズムがとてもよくなり、いつしか時治を時計坊主と呼ぶようになりとても感謝され、時治を恨んでいた女性も許すようになった。時治が亡くなると住民たちは時治を時の神様として神社を作り、時治の感謝の気持ちを忘れなかったそうだ。
