おかみさんは俺の問いかけには答えてくれず、店の奥に引っ込んだと思ったら、”にごり酒” の瓶を手に戻ってきた。
ぐい呑みに酒をつぎ、「さて」 とあらたまった声がして、さっきの話の続きをしてくれるのかと思えば、まったく別のことを言いだした。
「恋ちゃん、なんだか困ったことになってるみたいよ。えーっと、お二人は恋ちゃんのこと、ご存じ?」
「麻生さんですね、麻生恋雪さん」
「そうそう。恋ちゃんの婚約者のことは?」
「彼女、婚約してるんですか?」
「えっと、そこから話さなきゃいけないのね」
どうしよう、私が言ってもいいのかなとおかみさんは迷いを見せたが、井上さんにせがまれてやむを得ずと言った感じで話をはじめた。
「恋ちゃん、あんまり自分のこと話さないでしょう。
あの子、婚約寸前の彼がいたんだけど、事故で亡くなったの。
三年忌がすんだばかり」
井上さんは言葉につまり、店長は悲痛な面持ちになった。
それでね、と言葉をつないでから、おかみさんは恋ちゃんの困ったことについて語った。
「亡くなった彼の従兄弟と、恋ちゃんの縁談があるんだって。
31歳、将来有望な会社員よ、いいお話でしょうって、彼のお母さんから、三年忌の法事の席で言われたそうだけど。
恋ちゃんと甥っ子さんが結婚したら、あの世の息子も自分も安心だからって、熱心に勧められたみたいよ」
「はぁ? 信じられない。なんですか、それ」
怒りの声をあげたのは井上さんだった。
「あの世の息子が安心かどうかなんて、わかるはずないでしょう。
母親が、自分が安心したくて勧めたに決まってるじゃないですか。
息子を忘れないように、しばりつけておく気ね。
私も姑と合わなくて嫌な思いをしたけど、非常識な母親ってどこにでもいるんですね。
麻生さん、絶対やめた方がいいです」
猛烈に怒っている井上さんを見ながら、彼女も苦労したんだなと漠然と思った。
みんなそれなりの修羅場を乗り越えて、新しい人生を歩き出したのだ。
彼女をなだめるのは店長に任せて、俺は自分の内側に意識を向けた。
ここに来てわかった事実と、昨日見たことを整理すると……
婚約者を亡くした恋ちゃんは、姉の愛華さんの元旦那と交際していたが、婚約者の親から親戚の男と結婚しないかと勧められた。
それを、あの男に相談していたのだ。
『私たち、別れるつもりだったんです』
恋ちゃんが俺に告げた言葉を考え合わせると、付き合っている彼がいるのに、姉の元旦那と交際していたということか。
実際二股だったかはわからないが、婚約者が亡くなる前、恋ちゃんの気持ちは愛華さんの元旦那さんに移っていた。
だから別れを決めた、が、その矢先に婚約者が事故死した。
『愛華もわかってくれるよ』
昨日、愛華さんの元旦那がいったセリフが耳を通り過ぎていく。
三周忌が過ぎたら、ふたりは一緒になるつもりだったのではないか。
じゃぁ、俺に向けてきた顔はなんだよ。
話を聞いてくれるんですかと、嬉しそうにしてたじゃないか。
恋ちゃんの亡くなった婚約者の母親が店にやってきたあと、自転車を押す俺の横に並んで歩きながら、俺が気にしているだろうと思ったから話しておこうと思って、と語ってくれた。
どうでもいい相手なら、そんな気遣いはしないだろう。
恋ちゃんとは友人として良い関係を築いていると思っていたのに、そうではなかったのか……
胸の奥が震え、胃がキリキリと痛み出した。
裏切られる辛さをふたたび味わうとは思わなかった。
忘れないように近くに置いていたキャットベッドを抱え込み、俺はこみ上げる苦しさに耐えた。



