「こゆき、福袋が完売した札を出しておきなさい」
「はい、今年も完売御礼ね」
お父さんの 「こゆき」 という呼びかけが新鮮だった。
彼女は、恋ちゃんではなく、こゆきなのだ。
いつだったか、「恋ちゃん」 と呼んだ俺へ微妙な表情をみせたのは、「こゆき」 と名前で呼んでほしかったからではないのか。
名前は、親につけてもらった大事なものだ、気安い愛称も悪くないが、きちんと名前を呼んであげたいと、このとき思った。
愛華さんの元旦那さんも、「愛ちゃん」 ではなく 「まなか」 と呼んでいた。
その人の特別になるために、呼び名は大事なことかもしれない。
とはいえ、急に 「こゆき」 と呼ぶのは照れくさい。
ふたりでコタツに入って足を絡ませながら、ちょっといい雰囲気になったら 「こゆき」 と呼んでみようか。
なんて甘ったるいことを考えていたら、武骨な声が聞こえてきて甘い妄想は打ち消された。
「まなかさん、おめでとうございます」
「まぁ、矢部さん、おめでとうございます。来てくださったんですね」
「案内状をありがとうございました。祝い箸、お袋が喜んでいました」
「嬉しいわ。さぁ、こちらへどうぞ」
かしこまった男を、愛華さんがいそいそと店の奥へ招き入れた。
そのときの麻生の親父さんの顔といったら、どういえばいいのだろう。
男を査定するような、とでもいうのか、厳しい目でみつめ、およそ客を迎える顔ではなかった。
矢部さんは、このところ足しげく通ってくる、新米の 『麻生漆器店 特別会員』 さんだ。
愛華さん目当てであるのは誰の目にも明らかで、それをまた隠そうともしない。
愛華さんもまんざらでもなさそうで、再婚間近か、とご隠居さんたちとも噂していたのだが、麻生の親父さんの反応はイマイチのようだ。
そしてもう一人、愛華さんの息子の龍太君も矢部さんに厳しい目を向けている。
彼にとっても母親の再婚は一大事、どんな男であるのか、見定めようとしているのだろう。
今年の 『麻生漆器店』 は、波乱の幕開けになりそうな気配だ。
……と、他人事のようにのんきにしていた俺は、ひっくり返るほど驚く出来事に出くわした。
「たけしさん」
「へっ?」
俺を呼んだのは、誰だ? 恋ちゃん?
あまりに驚いて、きょろきょろと見回した。
「武士さん、こっち。紹介します、母方の伯母です」
呼ばれた方へ足を進めたが、思うように足が動かずもつれかけた。
そんな俺の背中を ”バンッ” と叩いたのはヨネさんだ。
「タケちゃん、しっかりな。ほら、彼女が呼んでるよ」
「はっ、はい」
波乱の幕開けは俺の方だった。
先に恋ちゃんに名前を呼ばれるとは……
出遅れた分を取り戻すにはどうしたらいいのだろう、もつれた足を戻しながら必死で考えた。



