「顔、洗ってきます」
自分を励ますように声を出して、恋ちゃんは洗面所へ駆けて行った。
言い返したっていいじゃないか、我慢することはない、全部ぶちまければよかったんだ。
きっぱり縁を切ったらせいせいするよ、気持ちも楽になるから。
そう言ってやりたかったが、彼女を追い詰めそうな気がして言葉をのみこんだ。
一方的に言われて、少しは反論したものの、言い返してしまったと激しく後悔する姿がどうも腑に落ちない。
いったいどんな悩みを抱えているのか……
話を聞くことは俺にもできる。
姉さんの元旦那さんより、友人に相談する方が自然だろう?
友人って誰ですか、なんて間抜けな質問は受け付けないよ、抱えていることを話してよ。
恋ちゃんへ語りかける言葉を選び、シナリオを作ってからリビングに入った。
部屋の角にはキャットタワー、その下にはそろいのキャットベッドが並んでいる。
タァー君と一緒にタワーに上って遊ぶミューは、すっかりここの住人の顔だ。
コタツの上には卓上コンロが用意されていた。
今夜は鍋か? と思っていると、予想通り土鍋が登場した。
洗面でさっぱりした顔になった恋ちゃんへ、素朴な疑問をぶつけた。
「ひとりで鍋をするつもりだったの? ひとり鍋にしては大きいね」
「いいえ、今日は……これ」
ふたが開けられ、鍋の中身を見て俺は喜びの声をあげた。
予想は外れたが、むしろこっちの方が嬉しい。
「おぉ、うまそう。おでん、いいね、うん、いいよ」
「朝、仕込んでおいたの。味、染みてると思うけど」
「もしかして、最初っから夕飯に誘ってくれるつもりだった?」
うん、と小さな声がして、彼女は肩を少し持ち上げて照れくさそうにした。
「おでんなら、温めるだけで、すぐに食べられるかなと思って。
西垣さんが食事をすませて来たら、そのときは、私が二日くらいかけて食べるつもりだったけど」
「食べたあとでも、おでんの香りに誘われたね。
冬におでん、最高だ。急に腹が減ってきた」
「喜んでもらえてよかった。今夜は一品ですけど」
「ふっ、そうだね、一品料理だ。さっきのおばさんの得意料理だ」
おばさんって、ははは……と恋ちゃんが笑う。
どうぞと勧められ、さっそく箸を取った。
土鍋には、どれから食べようかと迷うほど多くの具材が入っている。
まずは、好物の大根とはんぺんを皿に取った。
「そうですね、彼の家は、大皿料理が得意かな。
食事に呼ばれることも多いけど、テーブルの真ん中にどーんと大皿が出てきて、みんなでつつくの。
餃子やから揚げなんて、何十個もあるの。たくさん作るから美味しいんですけどね」
恋ちゃんは、彼の母親を悪くは言わない。
「そんな家庭で育ったんだ、彼が一品でいいっていうのもわかるね。
じゃぁ、彼、おでんは好物だったでしょう」
「彼に作ったことなかったから、わからないけど。好きじゃないかも」
「どうして?」
「おでんは手抜きだと言われから」
「どこが手抜き? 彼が言ったの? それともあのおばさん?」
「あの人に言われました。材料を切って鍋に入れるだけだから、無精者の料理だそうです。
そんな風に言われたら……」
「作る気にはならないか」
恋ちゃんも ”あの人” と口にする。
もう ”お義母さん” とは言わなくなっていた。
「人ってさ、自分の都合の良い解釈をするからね。
あの人にとって、おでんは手抜き料理なんだ。俺はそうは思わないけどね。
大根の面取りとか、手間がかかってるよ」
琥珀色の大根には、十字の隠し包丁も入っている。
彼女がどれほど手間をかけたか、大根を見ただけでもわかると言うものだ。
「西垣さんすごい、面取りなんて、よく知ってますね」
「これでも自炊歴は長いから、知識だけはあるよ。実践は得意じゃないけどね」
隠し包丁やあく抜き、出汁の取り方や乾物の戻し方まで、料理のコツというか、うんちくだけは一人前だ。
見て読んで学べることを頭に入れるのは得意だが、いかんせん料理の腕がついていかない。
簡単な物は作れても、凝った料理は無理とはなからあきらめている。
地方にいた頃は、「ひとりだろう。食べにおいで」 と誘われ食べさせてもらうことも多かった。
お腹いっぱいになりました、美味しかった、ごちそうさまでした、と感動を言葉にすると、料理を作った人にとても喜んでもらえた。
感じたままを素直に伝えることがどんなに大事であるかを、あの頃学んだ。



