『恋雪食堂』
我ながらうまいネーミングだと思う。
恋ちゃんは、リビングのドアに 『恋雪食堂』 と書いたプレートを下げて、朝俺を迎えてくれる。
彼女も遊びを楽しめる人だ。
通い始めて10日になるが、「食べる人」 と 「作る人」 の関係は思いのほか上手くいっている。
朝起きて身支度を済ませ、7時10分に家を出て、自転車で数分の距離を走る。
『恋雪食堂』 の営業時間は、7時20分から50分まで。
食事はすでに並んでおり、座ったらすぐに食べられるよう準備ができている。
和食と洋食、どちらが用意されているのか席に座るまでわからないのも楽しみだ。
デザートは日替わりで、果物やヨーグルトや自家製ジュースもあったが、今朝はアップルパイが出てきて驚いた。
「友達がリンゴを送ってくれたの。
たくさんあるから作ってみたんだけど、朝から重いかな」
「軽く食べられるよ」
「無理してません?」
「全然、まったく」
「よかった。お茶よりコーヒーですね」
「うん。あのさ、予算オーバーしてない?
福沢諭吉一枚じゃ、絶対足りないと思うんだよね」
コーヒーメーカーをセットしながら 「大丈夫ですよ」 と笑顔で返された。
大きな音をたてて動くコーヒーマシンは豆から挽く本格派で、コーヒー専門店と変わらぬ美味しさだ。
コーヒーの深い香りに包まれて、朝から贅沢な気分を味わっている。
美味しい手料理で胃袋は大満足、気分もすこぶる良い。
俺は満足しているが、彼女はどうだろう。
材料費はそれほどかかっていない、手間さえかければ食費は安く済むと恋ちゃんは言うが、要するに手間賃は全く反映されていない。
彼女の労力は金額には換算されず、『恋雪食堂』 はボランティアで運営されているようなものだ。
「準備から後始末までやってもらって、それに、水とかガス代だってかかるでしょう」
「一人分作っても水もガスも使うから、二人分も燃料費はたいして変わりません。
それに、西垣さんからもらった食費で、二人分作れるの。
私、やりくり上手いと思いません?」
「思う思う。そう考えると、ひとり暮らしは無駄が多いね。
ひとりでは暮らせなくても、ふたりなら暮らせるんだと言われたことがあるけど、そういうことか」
地方にいた頃、親しくなった農家の年配のご夫婦が 「貧乏だったから一緒になったんだよ」 と言っていた。
貧乏もふたりなら耐えられるのだと皺が刻まれた顔で言われ、そんなものかと、その時は実感がなかったがいまならわかる。
「コーヒーできました。ミルクもどうぞ」
「このミルク、コクがあるね」
ミルクピッチャーから注がれたミルクが、なめらかな円を描いてコーヒーに溶け込んでいく。
ブラックも美味しいが、このミルクによって生み出されるまろやかな味わいもよい。
「美味しいでしょう? 恋雪印ですから」
「えっ、作ったの?」
「生クリームと牛乳を合わせるだけ、配合さえ覚えれば簡単ですよ」
なんでもないように言うが、手間を惜しまない姿勢が恋ちゃんのすごいところだ。
彼女となら、心豊かな暮らしを送れそうだ
ふと浮かんだツーショットは、日当たりの良い縁側でコーヒーを飲む俺と彼女の姿だった。
思いがけない空想に戸惑い、目をこすって映像を打ち消した。
胃袋が満足すると、途方もないことを考えてしまうらしい。
味わいながら飲んでいたコーヒーの残りをゴクゴクと飲み干して、「ごちそうさま。今日は急ぐから」 と言残し 『恋雪食堂』 を飛び出した。
だらだらと続く坂道を、いつもなら歩いて自転車を押してのぼるのに、今朝は必死になってこいだ。
それが恋愛感情に直結した行動だったとは、その時は露ほども思わなかった。
俺と彼女の休日は異なるが、朝は毎日同じ時刻に起きるという共通点により、『恋雪食堂』 は休むことなく続いていた。
そこに変化が起こったのは、俺に地方出張が入ったためだ。
明日から二日間留守にするから 『恋雪食堂』 を休むと伝えると 「ミューちゃんを預かりましょうか」 と言われた。
『ペットショップ ニーナ』 に預けるつもりでいたが、恋ちゃんが預かってくれるなら安心だ、お願いしますと返事をして、今夜連れてくることに決まった。
その日の夜、ミューとキャットベッドを持って恋ちゃんの部屋を訪ねた。
玄関先で帰るつもりでいたが、「お夕飯、食べていきませんか」 と誘われ、胃袋を刺激する匂いに勝てずごちそうになることにした。
手土産を持ってくるべきだった、出張土産を張り込むか、そんなことを考えながら上がり慣れた玄関で靴を脱いだとき、インターホンが鳴った。
いつもなら、モニターで確認してから玄関ドアを開ける恋ちゃんが、不用心にドアを開けてしまったのは、俺が一緒にいる安心感があったからだとあとで聞いた。
その日に限って……という事態は、間の悪いことが多い。
夕飯時の訪問者は、嵐を運んできた。



