Summer 7th Heaven

そう言ってマナトはソファーに浅く座りなおし、おじいさんに軽く身を乗り出した。

その瞳は真剣だった。

「僕たちに何か嘘ついてる事、ある?」

期待を込めたマナトの目は真剣だった小さな町だ、誰もが顔見知りの・・・僕ですら、息を呑んで次の回答を待つ。

おじいさんは、今まで向けられた事のないマナトの真剣な瞳にも動じることなく、真っすぐ見つめ返している。

「全く、身に覚えがないのぉ」

あまりにもキッパリ申し出された答えに、マナトは逆に押された様子で、深くソファーに身を沈めた。

「だ、だよね?それならいいんだ!」

いつもの調子を慌てて取り戻す様に、マナトは笑って見せたが、おじいさんは気を悪くする素振りも見せずに、勤めて大人の対応でマナトを見つめていた。

よかったのか、悪かったのか・・・深い謎は謎のままだった。

これ以上、人を疑うようなマネはしたくない。

むしろ、彼女がそれだけ思い入れのある場所として、この場所を選んだのだと、記憶するしかなさそうだ。

僕が去った後の出来事など、誰にも解らないのだから。

今日はこのまま静かに一日を終える事に決めた方がよさそうだと、おじいさん、マナトと別れ、互いにそれぞれの部屋へと戻って就寝することにした。

最後にこの部屋を出たのも、やはり僕だった。

再びバルコニーに出て、一人で考えたかったから。

答えなど出ないけど・・・ただ、しばらく月を眺めていたかったから。

今までの人生の中で、ここまで眠れそうにない夜は初めてだったからだ。

ベッドに入っても目を閉じることも出来ず、暖炉前のソファーに腰掛けても、バルコニーから差し込む淡い月の光が、中々僕を寝かせてはくれない。

今日は一番の大冒険を繰り広げた一日だったはずなのに・・・

たまらなくなった僕は、ソファーから意を決したように立ち上がると、落ち着かない足を何度もバルコニーへ向けた。

しばらく月を眺める。

いったい何度繰り返せば落ち着くのか、わからなかった。

そこへ、風に乗って白い煙がユラユラと僕の前を通り過ぎていった。

思わずその元を視線で辿ると、慌てて右手を後ろ手に隠す人影が、バルコニーの反対側の隅に立っているのに気が付いた。

どうやら、コネクティングルームのバルコニーだけはしっかり繋がっていた様だ。

マナトは口から隠しきれない煙をゲホゲホと吐き出しながら、むせ返っている。

マナトについても、まだまだ知らないことがあるのだと気づかされた瞬間だった。

「・・・意外だな」

僕の言葉に、マナトは慌てて火を消そうとしているが、もう遅かった。

「いいよ、気にしてない」

マナトは少し僕の顔色を窺うように、細く巻かれたハッパを見つめ、付け加えた。

「たまーに・・・な・・・」

更にその先の言葉を僕が続けよう・・・

“どうしようもない時は ”だろう?

マナトは黙ったまま小さく僕と反対側にフーッと煙を漏らす。

ツンと鼻を突くような匂いと、その横顔は、僕から果てしなく遠い存在のような気がしていた。

ミューについても、本当は同じ様なものだ。離れていた時間の方が長い。

その時間を上回って、遠い存在になった様な、あのミューが今になって僕を遠くまで引っ張り回す事になるなんて、想像すらしていなかった。

もしかしたら彼女もまた、今のマナトのように、細く巻かれたハッパに火を付け、誰も知らない別人の顔のまま、あの “秘密の楽園 ”を未だに泳いでいるのかもしれない・・・だけど、確かな事が一つだけある。

それは・・・

それでもマナトはマナトで、ミューはミューだという事だ。

あまりにも黙りこむ僕に、マナトは吸いかけでまだ火が付いたままのソレを僕に差し出した。

何事も経験か・・・

タバコとはまた違った独特の香りのするソレを、受け取ると、おぼつかない手つきでゆっくりと肺に吸い込んだ。

喉の奥にへばりつくような煙は、僕の指の先までジーンと痺れさせ、脳を静かに震わせる。

一本吸い終える頃には、僕たちは2人してほろ酔い気分のまま、ソファーに倒れ込んでいた。

体が重くソファーを押し沈めるのを感じ、静かに目を閉じる。

生まれて初めてのジョイントは、僕を芸術家にさせる様だった。

満月に近い月を真っ赤に染め上げ、その中心では、ユラユラ揺れる水面のような表面を小さな人魚が泳いでいた。

僕は空気をいっぱい吸い込んで、また静かに目を閉じる。

マリファナ、ジョイント、ハシシ・・・そう呼ばれる大麻を楽しむ人間が僕の周りに居なかったわけじゃない。

今やパーティーの余興か、楽しみのメインイベントのように普通に取り入れられている。むしろ、この年で経験がない方が珍しい。

別にマナトを肯定するつもりはない。

ただ、僕が今まで興味を示さなかった理由は・・・

人生の楽しみが、幸せを感じる瞬間がその時だけに限定されるのが怖かったからだ。

本当の孤独な人間にはなりたくなかったから。

そんなバカげた話と、言う人も多いだろう、本当は、ただの小心者なだけなんだろうと・・・。

それは、一瞬でとり残される孤独を知らないからだ。

矛盾しているように聞こえるかもしれないが、傷つきながら一人になるより、傷つく前に一人になる方を、選ばざるを得なかった。

その孤独を知らないからだ。

今はマナトがいつ僕に愛想を尽かすか、時々不安になる時もある。

長い間、間近に誰かが居てくれると、一人になった時の空しさに今度こそ耐えきれなくなりそうだった。

70億も人が居て、自分を理解できる人間はたった一人しかいなくて、それでも孤独じゃないのは・・・


その孤独を聞きつけてくれる人が居てくれるからだ。

その孤独が聞こえ、反応してくれる人が居たからだ。


僕はゆっくりと目を開けた。

いつもと違う、シンメトリーになったマナトの部屋のソファーの上、僕は重い体を少し起こして、無意識にマナトを探す。

さっきまでその対面のソファーに横たわっていたマナトの姿はなかった。

ベッドの端に座り、少し前屈みになって、両手を組み、膝の上に置いている。

バルコニーから見える月を、微動だにせず、真っすぐに見つめていた。

その顔は、バスケの大事な試合前にしか見せない顔だった。

こんな時のマナトには、誰一人として話しかける者も、おちゃらけたりする者もいなかった。

その目を通して、世界がどんな風に見えているのか、考えもつかない。

そういえば、マナトの口から悩みなど聞いたこともないな。

グチですらも。

聞き出そうとした事は、何度もあるが、お前はどうなんだと、いつも問題がすり替わるのだ。

僕はゆっくり瞳を閉じた。

ぼやけてゆく頭の中に、1人の女性が現れる。

50年代風のアンティークな8mmビデオの陰に隠れて、半分見える顔に笑みがちらりと見えるが、誰なのかはわからない。

無声映画さながらの映像・・・。

視点が彼女の目線を通して移り変わる。

どうやら屋敷の中の様だが、今の内装よりも新しく、少し違った様に感じた。

視線が少しブレると、脇の方でフリルのついたレオタード姿の子供たちがはしゃぎながら通り過ぎる所だった。

それを追って、赤毛の美しい女性が小走りでやって来た、カメラに気づくと、レンズに向かって軽く手を振り、少しはにかんだ笑顔で応えて通り過ぎていった。

場面はまたも切り替わり、アリスの庭だ、一面に赤いバラが咲き乱れていて、まるで本物のアリスガーデンに立っている様な気分になる。

手入れが行き届いていた。

今度は画面が真っ暗に切り替わって、白い文字が浮かび上がる。

”白ウサギは、アリスを追ってこの先に隠れたよ。”

その後一瞬映し出された鐘・・・
まだツタで覆われていないそれだった。

不思議な気持ちで、僕は瞳を開けると・・・そのまどろみの中で、一瞬こちらに気づいたマナトが僕に目を向けた気がしたが、あまり覚えていない。

なぜかその時、「ミュー・・・」と、僕は呟いた―。