何とか葬儀を終えた僕は寺の広場に散らばる客を境内の別室に集め、参列者たちはありがたいとばかりに、おばさん達がせっせと運んでくれた昼食のお弁当にありついていた。

誰もいなくなった寺の広場で、小雨になった雨に降られながら僕は一人、蛙の鳴き声にしばらく耳を澄ませていた。

そうだな、ここで少し母のことを話しておくことにしようか、一番わかりやすい、手っ取り早い方法で。

母は・・・伯父さんと正反対の人間を想像してもらうのが一番いい。
人には優しく、親切で、何よりも他人に対して慈悲深く、僕にもとても甘い人だった。

忙しいながらも、町内の行事には進んで参加していたし、何よりも人望が厚く、人を喜ばせる達人で、近所ではちょっとした人気者だった。

面倒見のよさからは中・高とPTAの会長を務めていた時期もある。

サバサバとしていて、とても気さくな人だったが、一つ心配事が出来ると、全部一人で抱え込んでしまう所が唯一の欠点だ。

その原因は父親にもある。
僕は父親を知らない。

その顔も、声も、写真すら見せられた記憶がない。

母は女手一つで僕を立派に育て上げたのだ。


”子供にハンデは背負わせない”


以上の理由から生まれた欠点なのだろう。

厳しい家庭環境にもかかわらず、母の泣き言は聞いたこともなかった。

僕が小学校にあがった頃、同級生の子供たちに、父親がいないという理由でイジメられて初めて母は重い口を開けるように、父さんは僕がうんと幼い頃に家を出て行ってしまった、とだけ聞かされていた。

理由は今も知らないままだ。

母は僕に何でも教えてくれたし、嘘が嫌いな真っ直ぐな人だったけど、父親のこととなると・・・大いなる秘密主義者の統領になってしまうのだ。

父親の話が少しでも僕の口から飛び出ようものなら、母は決まって貝のように口を閉ざすか、聞こえない振りをして曖昧な笑みを浮かべるか、またはぐらかすように話題を変えてその場をとり繕っていた。

当時の母の様子からでは、生死も定かではないようだった。


“罪を憎んで、人を憎まず”


そんな時には決まって、母はこの決まり文句で締めくくった。

いったい誰がこんな都合のいい言い訳を考えたのだろう?

僕はそんな母さんが大嫌いだった。

中学にあがる頃には何もかもすべてを父親のせいにした。

そんな母のせいにも。

母さんが必死でとり繕ってきた次の言い訳が尽きてしまう前に、今度は自分が物分りのいい大人という入れ物になろうと必死だった。

父親の“ち”の字も口に出さないよう、常に心がけ・・・ついには日頃の会話を極力避ける様になり、物分りのいい人間を演じ続けた。

そうなった一番の原因は、僕の13歳の誕生日、何気ない会話から飛び出した母の一言だった。

もちろんそれまでは父親参観の日も、母は恥じることなく堂々と出席してくれたし、たとえ同級生がそのことを囃し立てても、ちっとも気にならなかった。

それが僕の自慢でもあったから。

存在するかどうかもわからない父親の写真を母に隠れてこっそり探し出すのも諦めた矢先の出来事だった。

顔さえわかれば探し当てて文句の一言でも言ってやろうと思っていたのに・・・真実という名の爆弾はある日突然落とされるのだ。

あの日・・・誕生日のご馳走を急々と支度し、母は僕に背を向けたままこう言った。


『ソラももう13歳、立派に育ってくれて、ありがとう。あなたのお父さんも、どこかであなたのことを祝ってくれてるはずよ!』


文章にしてみればたったの数行、僕の中の何かが弾け飛んだ瞬間だった。

突然、父が生きていることが明らかになったのだ。

母が、僕をもう一人前として認めた上での一言だったのだろう。

僕は当時の同級生より随分落ち着いて見られていたし、同級生が学校帰りに集まって秘密基地を作っている間、僕は寄り道もせずに家に帰ると、夕飯を作る準備にかかっていたからだ。

同じ年の子と騒いだりはしゃいだりする前に、僕には母を助ける使命があると思っていたから。だから僕は大人という“入れ物”を真っ先に手に入れたのに・・・

なぜ今なんだ?

今更どうして?

と心の中でわめき続けた。

どれだけ努力しても、結局は入れ物に過ぎなかった“大人の仮面”はすぐに剥がれ落ち、子供の僕はただ、母も父も、2人とも憎くて仕方がなくなっていた。

その時は何とか『そう。』と母の言葉に短く答えたが、すでに母に対して何の感情もない返答だった。

僕は気づいてしまった。

母の中にまだ眠っている父への愛情を。

高校へあがる頃には、部活という好都合な言い訳ができたので、母を避ける様、出来るだけ遅く家に帰った。

家の手伝いもロクにしなくなり、母の負担は増え、年齢も重なってか、見る見る痩せていったが、僕はそんな母を心の中であざ笑っていた。

自分の感情を押し殺し、家では一言も話さなかった。

母は反抗期とでも思ったのだろう気にもとめない様子で、いつも通り僕に接してくれるのがまた妙に腹立たしかった。

大学へ通いたいという願いも喜んで受け入れてくれたが、それも母への復讐の一つだったのかもしれない。

そうして僕は学校でも人付き合いが苦手になり、人を避けるようになっていた。

母のパートが増え、夜勤も増え、部活がない日でも都合のいい言い訳を考える間もなく、静かに一人家で過ごす時間が増えた。

母が入院しても、それは変わらなかった。
父のことを考えるのも・・・すべてが嘘のように面倒臭く感じていた。

僕の作戦は大成功だった。母は41歳という若さでこの世を去ったからだ。

過労からくるものが大半を占めていた。

僕が、母さんを殺したんだ。

ねぇ、母さん。

あなたもまた、死ぬまで父のことを隠し通すことができたし、息子に父親について責められる事もなく、この世を去ることが出来たのだから・・・

だけど、僕がこんなにも子供じゃなければ、何か変わっていたのかな・・・?

ろくに親孝行もせず、今度は郊外の大学に通うというもっともらしい理由から家を飛び出た僕を、今頃遠くの空から、痩せぽっちの窪んだ目で、ガッカリしながら見つめているのだろうか?

たった今もこうして、こんな場所で、涙一つ見せない僕を、もしかすると怒っているのかもしれないな・・・

いや、その方がなんだか気が楽だった。

そんなことを思いながら、いつの間にか止んだ雨と雲の隙間から現れたジリッと焦がすような太陽に僕は目を細めた。


以上が僕と母の物語だ。

長くて退屈で、面白くもなんともない、この時代にあった何でもない話。

お寺の庭にはいくつもの水溜りができていた。一番近くに出来た水溜りには、僕の顔が写っている。

ひどい顔だった。

丸顔の母さんにちっとも似つかない顔立ち、時が経つにつれ、ズット恐れていたことだ。

僕の顔はきっと・・・そうなんだろ?
この先、鏡を覗くたびに僕は・・・

ピシャリと水溜りを足で蹴飛ばしてみる。気づけば僕の靴は泥だらけだ。


「これじゃ、歩けないよな・・・」


思わず声が口をついて出た。

そうか、僕はいつだって歩いていなかったっけ・・・?

その時、境内から近所のおばさんが僕を呼ぶのに気がついた。

おばさんは挙げた片手をブンブンと上下に振っている。

僕はため息まじりにシブシブみんなの集まる方へ足を向けた。


境内の階段を登ると、すでに配られた昼食を頬張る人でいっぱいになっていた。

思い出話に花を咲かせる者、未だに涙を流す者・・・

そんな間を縫いながら、ご近所のおばさんの一人が僕に弁当を差し出してくれたが、僕は愛想笑いを浮かべて軽くあしらった。

いつもアレやコレやと五月蝿いおばさん連中も、今日ばかりはそれ以上何も言わず、同情の目を向けたまま、弁当を差し出した手を引っ込めた。

まるで僕の方が招かれた客みたいだ。

そんな出席者から僕は出来るだけ離れたかった。

フト見ると、部屋の隅で惨めったらしく座る高志おじさんが目に入った。

僕は黙ったままおじさんの隣に腰を下ろした。

アルコールの匂いが僕の体にまとわりつく。

だけどなぜか嫌な気はしなかった。

僕は固く口を閉ざしたまま、外を眺め続けた。

庭には2匹のハトが何か食料はないかとぬかるんだ地面をつついている。

ひたすら襲ってくる恐怖になんとか押しつぶされないよう、背筋を伸ばす。

母親を殺した恐怖か?

それとも母親を失った恐怖か?

どちらにしても同じことだろう・・・

今日は僕の二十歳(はたち)の誕生日、母の命日。

そしてこれが、終わりの始まりだった―。