中はいたって普通の病院だが、思ったよりも光が射した、明るい解放感のある内装で、療養するには庭も広く、快適な温かさを感じる病院だった。
僕たちはすぐさま廊下を少し歩いた先のナースステーションに足を向けることにした。
ミューの元同僚からなら、何か掴めるかもしれないからだ。
マナトはさっきから若いナースがすれ違うたび、忙しそうに首を左右に動かしている。
「白衣の天使って何でこんな男心をくすぐるんだろ?」
知るか!
「あの、お忙しい所すみません」
ナースステーションで、忙しくパソコンの前で手を動かす女性が、鬱陶しそうにカルテから僕へと目を移した。
「わ!ちょっと・・・驚かせないでよ・・・」
マナトはその若い看護師に早くもご乱心の様子で、カウンターに頬杖をついたまま彼女に極上の笑顔を送っている。
看護師はそんなマナトに冷たい視線を送ると、再びパソコンのキーボードを激しく打ち付けた。
「何か御用ですか?忙しいので手短にお願いします。」
そんな彼女の不機嫌な様子にもめげず、マナトはニコニコと写真を差し出した。
「この子、この病院で働いてたって聞いたんだけど、知ってる?」
女性は写真に手を触れることもなくチラリと目を向けると、またキーボードを打ち始めた。
「ミューちゃんね、彼女ここ辞めて都心に移ったわよ」
僕の質問に、彼女は近くに居た更に若い看護師にカルテを素早く手渡し、「先生呼んできて!」と忙しそうに早口で呟いた。
「いつです?」
「2、3年前かしら」
マナトはカウンターに肘をつきながら、小さく頭を下げるその子に鼻の下を伸ばして笑顔で応えている。その子はカルテで顔を少し隠し、照れくさそうにクスクス笑った。
2、3年前?そんなに前からここを離れてたのか?何のために?
わざわざ看護師を辞めてまで・・・?僕は訝しみながら、更に聞いてみることにした。
「今はどこにいるかご存知ですか?」
「さーね、これから回診だから、役に立てなくて悪いけど」
そう言うと彼女は数名の看護師を引きつれてその場を後にした。
「ちぇー挨拶もなし、か・・・」
そんな彼女たちを見送って、横でマナトが口を尖らせたまま呟いている。
「やっぱり駄目か・・・」
そう溜息を洩らすと、一人の医師が通り過ぎようとしていたのを、後ろでマナトが慌てて引き留めていた。
写真をヒラヒラと見せてから、黙って首を横に振った。
あまり期待はしていなかったけど、この病院は彼女の父親の病院だ。
もう少し何かわかると思っていたのだが・・・
結局、大の男2人が肩を落として病院を後にすることになったのだった。
「そう言えば、人魚の像見つけたって言ってたけど、何かわかったか?」
「これといった説明書きも、なぁ~もなし。ただ像があるだけ、いたって普通のな」
マナトはそう言ってしょぼくれた顔で歩きだした。
気分は振り出しに戻った様だった。
マナトはそれでも楽園に寄って行くかと申し出てくれたが、今日は図書館に直帰することにした。鐘を鳴らすことに集中した方がいい気がしたからだ。
聞きまわるのはこれが最後かな・・・
後は自分たちで何とかするしかない・・・
僕はそう思いながら、遠くに見える奇怪で真っ赤な屋敷までの道をトボトボ歩き出した。
「そういえば、昨日さ、またあの後ろ姿の夢を見た・・・」
マナトは一瞬足を止めて僕を見つめる。
どう言うべきか迷っている時の顔だ。
少し驚いたように眉を吊り上げると、小さく顔を緩め、僕を見つめている。
「ここへ来てやっと饒舌になって来たな」
僕はその言葉に急に恥ずかしくなって瞳を反らした。
「前はなぁ~んも、話してくんなかったのに」
マナトは先に足を進めた。
「1人じゃどうする事も出来ない事があんだから、現に、お前一人でここまでやれたか?2人だから出来たって事もあるって!もっと大勢なら・・・だろ?」
そんなマナトの顔が急に大人に見えて、僕はいつかの自分を否定したくなった。
「誰かわかったよ」
マナトは僕の言葉に再び立ち止まって、真剣な瞳で次の言葉を待っている。
「母さんだった」
その言葉に、マナトは納得した様に小さく頷いて、背を向けたまま何も言わず、ただ黙って歩き続けた。
僕はそんな背中をひたすら追って図書館までの道を下った。
「おや、お帰り・・・早かったのぉ」
僕らに気づいて、おじいさんがアリスの庭から声をかけた。
拍子抜けしている様に見える。
そしてその隣には、6、70歳ぐらいだろうか?
女性と何やら談話中のようで、よく見ようとイスに腰掛けたまま体を反らせていた。
「あらあら、まぁまぁ!」
まん丸と太った女性が、僕たちを見つけて席を立つと、キラキラした顔でこちらにやって来た。おじいさんも、「これこれ・・・」と言いながら、女性を追いかけてこちらまでやって来る。
「今度はじっちゃんがしっかり鎖に繋いでおいてくれるって!」
マナトは僕にこっそり耳打ちをすると、僕は昨日訪れたあの庭いじりの女性を思い出し、思いきり睨み返すと、僕の首をしっかりと押さえつけ、またしてもニヤリと笑っている。
「まぁー旅人さんがいらしてると聞いていたけど、こんなに素敵な方たちとはホホホッ!」
女性の豪快な笑い声がホールに響く。
「昨日話とった私の友人じゃ、最近は仕事で世界中を飛び回っとる。わしも会うのは久し振りでな、滅多に会えん人じゃから、君たちは運がええ」
一足遅れて、息を切らしたおじいさんが到着すると、女性は胸を突き出して手を差し伸べた。
「マダム・ジョアンよ、よろしく」
「ど、どうも」
そう言って軽くウィンクをする彼女の手を、恐る恐る取る僕を、マナトは今にも吹き出しそうな顔で見守っていた。
「それで、探し物は見つかったのかい?」
ジョアンの言葉に、僕たちは目を丸くして彼女を見つめた。
「その顔じゃ、まだの様ね」
僕たちが驚きの顔をおじいさんに向けると、嬉しそうに高笑いをしている。
「マダム、もしよろしければ・・・」
おじいさんが言うと、マダムはもちろん!と庭に僕たちを促してくれた。
マナトは何が起こっているのか状況が掴めないといった様子だ。
「彼女は不思議な力を持っておっての、サイキッカーの仕事をしとる」
おじいさんははやる気持ちを抑えきれない様子で僕たちに話した。
「では、わしは新しいお茶を入れるとしよう、ごゆっくり・・・」
そう言ってとおじいさんはマダムの手に軽く唇を寄せると、スキップでもする様な足取りで嬉しそうにその場を離れた。
僕たちワケも分からず、イスに、並んで座るよう促された。
女性はその対面に座ると、ビロードの袋からトランプの様なものを取り出した。
タロットカードだ!
「あなた、本当にいい目をしているわ・・・黄色ね!」
そう言ってマダムが笑うのを、マナトは目をしばたいて見返した。
「そしてあなたは・・・」
ジョアンが僕の瞳をじっと見つめた。
さっきとは別人の様な鋭い瞳だ。
「青ね・・・真実!・・・とても繊細」
わかるわよね、と言うように、マダムは意味ありげにほほ笑むと、タロットカードを袋にしまってしまった。
「使わないの?!」
マナトが残念そうな声を上げる。
「えぇ、必要ないみたいだから、答えは出ているもの。そうでしょ?」
そう言ってテーブルに組んだ手を乗せると、僕たちの顔を交互に見つめた。
「教えて欲しいわ、私に何が聞きたいのか」
マナトは口をパクパクさせるだけで、言葉にならない様だ・・・
どうやら僕の出番の様だった。
「彼女は今どこにいるんですか?無事なんですか?」
「それを私に聞いてどうしたいの?私にどう言って欲しいのかしら?何か出来ることがあるとは思えないわ」
真っ直ぐな瞳で答える彼女を目の前にして、それ以上の質問は見当たらない。
がっかり肩を下すと、マダムはまるで別の言葉を期待していたかのような瞳で僕を見つめていた。
「そうね、特にあなたは、もう少し慎重に鏡をよく見る必要もあるわね・・・」
僕は何も言えずにうつむいたままだ。
マダムはそっと近くに置かれたティーカップに口をつける。
「あまりムキになったりしない事。物事を考え過ぎると判断が鈍るからねぇ・・・」
マダムは付け加えた。
「それからあなた」
今度はマナトにゆっくり顔を向けた。その視線に、マナトは思わず背筋を伸ばしている。
「彼と出会えてよかったと思ってる?」
そう言ってマダムがチラリと僕を見ると、僕にも緊張が走った。
突然の質問だったが、マナトはしっかりと頷いてみせ、マダムはニッコリ顏をほころばせていた。
「よかった、もちろん、そうだわよね?」
マダムはまるで、自分だけに分かるジョークを言ったかのように笑ったが、僕たちにはサッパリだった。
「本当に強い目をしているわ、けど、無茶はダメ、これはお願いじゃなくて、私からの忠告」
そう言って、ジョアンは僕たちの手を取った。
「運命は変えられない。これはあなたたちが否定しても、すでに始まってしまってる事なの、誰が始めたわけでもない。ただ・・・」
そういうとジョアンはテーブルに少し身を寄せた。
「付き合うか付き合わないかは、選べるわね」
僕たちは黙ったまま互いの顔を見つめた。
「今は何もわからない時期でいいのよ、幸せというものは、”今 ”という決断のドアノブを捻り続けること。それは、一瞬にして永久(とわ)なるものだから。過去も未来も詰め込まれたプレゼント(現在)は、毎日あなたたちの元に届けられる。玄関先で快くその贈物を受とり、届けてくれる人の顔を忘れない様に、どんなプレゼントなのかも忘れない様にね、あなたたちが人生を終えるまで、ずっと届けられものだから。それに気付けた人にだけ、ソット置いていかれるあなたの宝物・・・」
そう言って僕たちの顔をもう一度交互に見合わせた。
「大丈夫、一歩ずつ向き合えば、未来は必ずついて来てくれると信じなさい」
ジョアンは、おじいさんに似た優しい笑顔で締めくくった。
彼女の暖かい手が、やけに効果を発揮していたのを、僕だけじゃなく、マナトも感じ取っていた筈だ。
しばらく僕たちの瞳を優しく見守ったジョアンは、手を離し、静かに「終わり」と告げた。
何とも不思議な時間だった。
あれほどうるさいマナトでさえ黙ったまま深々と頭を下げている。
ここで、おじいさんが新しいお茶を運んできた。
これ以上ないほど顔をほころばせている。
「終わったのかね?」
「あ、はい・・・」
煮え切らない僕の顔を見て、おじいさんは小さく笑みをこぼしいる。
僕がカップを受け取っている間に、マナトは勢いよく中身を飲み干している所だった。
緊張で喉がカラカラになっていた様だ。
「またこの話の続きは夕食時に。わしはマダムと積もる話があるのでな」
おじいさんはマダムに振り返った。
「あの、僕たちにはまだ時間が必要で、長居してしまって大丈夫なのでしょうか?こんなに良くして頂いて・・・」
僕の言葉に、ジョアンとおじいさんは驚いたように顔見合わせてから、2人同時に笑い声を上げた。
マナトは隣でお代りしたお茶を吹きそうになっている。
「それを貴方が気にすることかしら?」
僕はマダムに向き直った。
「嫌ならとっくに追い出しとるわい」
ジョアンは可笑しそうに人気のないガランとした図書館を見渡した。
「ここではそんなに気を使う必要はないと思わない?」
おじいさんは静かにマダムの肩に手を置いて、ほほ笑みながら僕に顔を向けて頷いる。
僕はそんな2人のご厚意に、思わず顔を緩ませて、肩の力を抜く。
