階段を下りた所で、アリスの庭の人影に気が付く。

おじいさんが月を愛でながらパイポを吹かしている最中だった。

膝には読み古された本が開いたまま置かれてある。

足音に気づいて、僕に振り返ると、何も言わずに再び月に目を移していた。

「眠れなくてな、少し昔を思い出しとった・・・」

僕は対面に置かれたイスに腰を掛け、月に目をやった。

「きれいな月ですね・・・」

マナトのように、こんな時気の利くセリフは、僕には思いつかない。

「月には色んな不思議が隠されておる。地球から見える月はいつも同じ面なんじゃ、その裏側を、わしたちは知らん。更に中は空洞になっておる。なのに、人はその裏側を知りたがる、中身もない空っぽなものなのにのぉ。ロマンじゃな・・・」

おじいさんはそう言って僕の瞳をとらえた。

「月が満ちている時は犯罪も増えるという統計もある様じゃが、満月はその “結果 ”なんじゃという説も・・・」

僕は思わず立ち上がっていた。

結果!?

そんな僕を、おじいさんは驚きもせずに見上げている。

「あの、他に・・・例えば人魚について知っている事はありませんか?」

「人魚なら君も知っているはずじゃが・・・公園には行かれたのじゃろ?」

どういうことだ?

「この街はうんと昔、海の底だったのでな、所々に人魚の像が立っておる・・・気が付かなかったのかね?」

「ありがとうございました!」

僕はおじいさんが言い終わるや否や、すぐさまその場を後にした。

彼の「夜更かしもほどほどにせぇーよ」という一言も背中で聞くと、一目散にマナトの元へと急いだ。


「収穫だ!」

部屋に戻るなり、僕の突然の声に驚いて、マナトはソファーから飛び起きている。

「ビックリさせんなよ・・・」

右手は心臓を押さえ、左手には八百比丘尼伝説の本を持っている。

僕が先ほど聞いた事を事細かく説明するやいなや、マナトは弾けるように部屋を飛び出した。僕はすぐさま後を追う。

【地理】と札がある部屋に入ると、マナトは設置されたあらゆる引き出しを引いては、また次の引き出しを漁っている。

どうやら、スウィッチを探す間に随分詳しくなった様だ。

「あったか?」

「古い地図はあるが、もう少し詳しく書かれた地図はじっちゃんに聞く必要がありそうだ」

マナトは僕に振り返った。

「ソラ、一気にもがいても仕方ない、今日はこれまでにしておこう」

マナトの申し出に僕も賛成した。
今日は2人ともクタクタだ。

「明日、病院の帰りにもう一度、秘密の楽園に行ってみよう!」

僕の言葉に、マナトは二言がない様だった。

一応、見つけた地図は引き抜いて、コミュニティールームに置き、僕たちは再び各自の部屋へと戻って行った。

寝巻に着替えた僕は、ベッドに倒れ込むように入る。フカフカのベッドに体が沈んでいく・・・体は限界まで疲れ切っていた。

試験前でもこんなに疲れた事はなかったな・・・そう思いながら、僕はベッドの上で寝返りを打って、開け放たれたカーテンから、バルコニーの向こうに輝く美しい月を眺めた。

次第に月が揺らんでいく・・・

ユラユラユラ・・・まるで水面に映る月のように。

僕はハッと目を覚ました。
まだバルコニーから月が覗いている。

カーテンが揺れるその向こうに、月を見つめたまま、手すりに少しもたれるように誰かが立っていた。

またあの後ろ姿だ。

僕はこれが夢だと、今度は確信と共に瞳を細めた。体は自由に動かない。

細い声で歌声が聞こえてくる。

“真っ暗な道に
カチッと紐を引っ張って
月の街灯が照らせば、
世界がこんなにも
美しかったことを思い出す。
花は小さく風に吹かれて
笑ってる
水は注がれる私の命
世界がこんなに
鮮やかなのは
そんな幸せが
注がれてるから・・・“

なんて美しい歌声だろう・・・幾重にもハウリングしつつ、か細くも、力強い。

僕はそれを聞きながら、夢の中で目を閉じた。

どこかで聞いた懐かしい歌。振り向かなくていいからまだ少し歌っていて欲しいと願う・・・。

だってこれは・・・

そうだこの歌は・・・

「・・・母さん?!」

僕は飛び起きた。

ベッド脇に置かれた時計の針は6時50分を指していた。

7時にセットされた目覚まし時計も、まだ眠りについている。

見慣れない豪華な部屋の天蓋付きベッドの上だ。

そうだった・・・

僕は寝ぼけたままの目を擦り、バルコニーに目を向けた。

朝日が燦々と部屋に指しん込んでいる。今日もいい天気の様だ・・・

懐かしい子守唄。母さんがよく歌ってくれてたっけ・・・?

僕は思わず目を細めて、ゆっくりとベッドから抜け出し、大きく伸びをした。

マナトはまだ寝ているんだろうな・・・

そう思いながら、暖炉の横のドアをしばらく見つめる。

疲れが残る体を奮い起して、今日も夜まで走り回らなくては・・・

僕はカバンから洗面セットを持ち出した。


階段まで来ると、朝食のいい香りが鼻をかすめていく・・・

おじいさんはすでに起きている様だ、ホールから話し声が聞こえてきた。

僕は足を止めて耳をすませる。
おじいさんのお客は随分早いな・・・

そう思いながらホールを覗くと、肩にタオルを引っかけた男が、おじいさんと話し込んでいた。

「・・・じゃ、用意よろしく!」

そう言うと、ランニング姿の男は清々しい笑顔で振り返る。

「よっ!寝坊男、よく眠れたか?」

「マナト?!」

面喰ったまま、まだ寝癖姿の僕に、ニッと歯を覗かせた。

すでにひとっ走りしてきたのか、額に爽やかな汗を光らせている。

「おはよう」

いつもの優しい笑顔のおじいさんが振り向くと、僕は慌てて挨拶を返しながら寝癖を直す。

「おはようございます!」

「いやーやっぱ朝のランニングはいいね~」

僕のそんな姿に、マナトはまだニヤニヤ顔で、勝ち誇ったような顔を向けている。

元気な奴。
僕の体はまだ重いというのに・・・

「二人共、朝食の準備が出来ておる、よければ今朝は庭で食べよう、では、30分後に・・・」

おじいさんはそう言って隠し扉の奥に消えていった。

それをしばらく見送ると、マナトは颯爽と駆け寄って、階下から僕を見上げた。

「昨日から気になってさ、ランニング途中で探しまくって人魚の像5体見つけたぞ!」

と、いやに嬉しそうだ、いったい何時に起きたのだろう?

「後で疲れが出るぞ・・・」

「シャワー浴びて、朝食食ったらなおる!」

「野獣かお前は・・・」

「うっせ!低血圧の仏頂面!」

ブスッと答える僕に、朝から元気そのもののマナトは離れの浴場に向かった。

今日も長い一日になりそうだ。

30分後、寝癖もなおってスッキリした所で、アリスの庭にやって来ると、煌びやかな朝食が僕たちを待ち構えていた。マナトは目を輝かせている。

ベーコンとトースト、目玉焼き。
見たことがないようなオシャレなサラダに・・・香り高いコーヒー付きだ。

庭には都会では見たことがない様な鳥がツガイで遊びに来ている。

マナトは朝食をモリモリ平らげると、庭に顔を向けてゲーッと豪快な音を出しておじいさんに鋭い視線を送られていた。

宣言通り、元気そのものだった。

いや・・・更にパワーアップしたようだ・・・。

「王族のような朝食ご馳走様でした!」

マナトが言うと、おじいさんは召使のように小さくお辞儀をし、皿を片づけ出していた。

やはりまだ、厨房には入らせてくれない様だ。

『お手伝い妖精が気を悪くするから』らしい・・・

美味しい朝食をお腹いっぱいになるまで頂いて、準備が整った所で、僕たちは早速病院へと向かうことにした。

「それにしてもよー、あの屋敷にお手伝いさん一人も居ないなんて、変だと思わねー?」

こっちだ、と道を指しながら、僕はマナトのイキナリの疑問に眉根を寄せて応えた。

「もっと変なのは客を一人も見てないって事だな」

マナトの顔はもっと困惑した顔つきになっている。

「だよな・・・田舎だからかな?若い人居ないって言ってたし・・・最近は本を読む人も減ったからじゃね?」

あえていわくつきの屋敷だから誰も近づかないのかもしれない、という見解は避けている様だ。

病院までの後少しの登り坂に息を切らせて振り返ると、マナトは僕を通り越した先を眺めて目を丸くしている。

「おぉ、灯台近けぇー!」

僕も振り返った。

「もしかして病院かな?灯台の光直射じゃん?」

「そんなわけねぇーだろ」

と、僕は冷たくあしらって先を急いだ。

「空?!」

「だから、なんだよさっきから!」

そういって振り返ると、またマナトは僕の頭を通り越した所を指差し、ニヤッと笑いながら僕を促した。

下からは見えなかった病院の正面の、壁一面に空の絵が描かれていたからだ。

「へーんな街!」

マナトはそう言って空に向かってハハッと笑うと、浮足立ったまま病院の入り口に向かった。

子供心を掴むための病院側の思惑は、マナトの心も鷲掴みだ、もう僕を追い越している・・・僕は重い体をふるい起して、やっと最後の急な坂道を登りきった。

「情けねぇー・・・」

マナトはそんな僕に、入り口でやれやれという顔を見せて笑った。