「じっちゃんって、どっかの国の王様か何かかな?」

腰に巻いたタオル姿で、マナトは立ち尽くしたまま大浴場を眺めて呟いた。

離れにある小屋とは言い難い建物に入ると、そこは宮殿の中にあるような大浴場が広がっていた。

天井には天使の絵画がここにも施され、大きな湯船の中心には、女神の彫刻が水瓶から暖かい湯を流し淹れている。もう片方の手には本を持っていた。

イメージとしてはローマ風呂。

その周りには体を洗う場所が半円状にズラッと並んで、金色の蛇口とシャワーが光っている。

貸し切の大浴場には温かい湯気が充満していて、まるで天国に遊びに来ているような感覚に陥り、自分がどこに居るのかすっかり忘れてしまいそうになる。

湯船につかり、一日の疲れをゆっくりと癒した。

綺麗に体を洗って、後からやってきたマナトがザブリと浸かると、タオルを頭に乗せたまま、スイスイとこちらまで泳いでくるのが湯気の先から見える。

「おい、何か面白いもん見つけたか?」

その言葉に、僕はしばらくあの部屋を思い起こしたが、小さく「いや」と答えておいた。

「こっちはすごかったぜ!ほとんどが本ばっかの部屋だったけど、ひと部屋だけ、メリーゴーランドがある部屋があってよ・・・」

話し続けるマナトの言葉を耳の端で聞き、この屋敷の歴史について考え込んでいた。

いったいどういう目的で創られたものなのだろうと・・・

ただの図書館とは言い難い。

ホテルだった頃はどんなホテルだったのか?

まさか、アミューズメントホテルだったなんてオチはないよな?そう巡らせながら、頭の端で “時間があれば調べるリスト ”にしっかりと入れておいた。

「で、明日はどうする?」

その言葉に我に返った僕は、まだその辺をスイスイと上機嫌で泳ぎまわるマナトに目を向けた。

「病院に行こう。スウィッチはその後だ」

僕は立ち上がって、すっかり温まった体を出口に向かわせた。

「りょーかいっ!」

マナトはそう言うと、泳ぎながら後を追ってきたのだった。

アリスの庭で新聞を読んでいたおじいさんが僕たちに気が付いて顔を上げ、新聞を脇に置いては、手招きをしている。

追って行くと、おじいさんは、ちょうど東館の階段の真下の壁の前で立ち止まったまま、こちらにチラリと振り返って、再び壁と睨めっこをしている。

「どうする気だろう?」

マナトは頭にかぶせたままのタオルを首に掛けながら、僕に耳打ちをしたが、おじいさんが壁を片手でグッと押すと、ギッと音を立てて手前に開き、中から光がワッと漏れ出した。

僕たちの驚いた顔を見て、おじいさんのまたしても満足げな笑顔が僕たちを促した。


隠し部屋だ!


思ったよりも広い部屋に、20人は掛けられる長いテーブルには品のいい白いクロスが掛けられていて、その端に3人分の銀食器と、十分な夕食が並んでいた。

「君はこっちの席に座りなさい」

案内されるまま、足を踏み入れたが、マナトは内装に気を取られ、心ここにあらずのまま、思わずイスを踏み外しそうになっていた。

こんな隠し部屋があったなんて・・・

天井の一部が斜めになっていなければ、階段下だとすっかり忘れてしまいそうになる。

壁には目を見張る絵画が飾られてあり、その下には暖炉と、横には僕の背丈ぐらいの立派な振り子時計もあった。

上の階に隠し部屋などありませんように・・・今の僕はそう願うしかない。

「じっちゃんが作ったの?これ全部?」

マナトは早くもヨダレを垂らさんばかりに、目の前のご馳走を見つめて目を輝かせている。

僕のお腹が大きく唸り声を上げたていた。

「なにか不満かの?」

「いや、すごいなと思って・・・てっきりお手伝いさんとかが作ってるのかと思ってた」

おじいさんの鋭い視線に、マナトは語尾を弱めるように付け加えた。

「この屋敷に住んでいるものは他にもおるがのぉ」

聞こえるか、聞こえないか、小さく呟くおじいさんに、マナトの顔はまたしても固まっていく・・・おじいさんはそんなこと気にも留めていない様子だ。

「さて、君たちの武勇伝が楽しみじゃわい、いただきます!」

「いただきます!」

その合図で僕たちも一斉に食事にありついた。

「じっちゃん、あのメリーゴーランドもお孫さんに作ったの?」

勢いよくステーキを頬張るマナトの早速の質問に、おじいさんも嬉しそうに顔をほころばせている。

「そうじゃ、昔から本を読み聞かせておったからの、少々夢見がちな少女に育て過ぎてしまったが・・・」

そう言いながらも、表情からは溺愛の色が浮かんでいた。

「女の子なんだ!年は?」

食いつくようにマナトが反応すると、おじいさんは小さく笑う。

「年も君たちとそう変わらんじゃろ、機会があれば紹介しようかの?」

その時、奥の方で何かがガシャン!と大きな音をたてた。

おじいさんは隣に続くドアの方を振り返り、思わず驚いて立ち上がったマナトを手で制している。

「なぁ~に、大丈夫じゃ。キッチンにはたまぁ~に妖精がイタズラしに来るからのぉ」

マナトは静かに席につき直したが、怯えた様子で僕の瞳を見つめ返していた。

「この屋敷に住んでるのは、妖精だけじゃないですよね?」

これは僕の追い打ちだ。

マナトは訴えるように右手で首を切るしぐさを見せるが、僕はそれを見ない様におじいさんの方に体を向けた。

「君はこの屋敷の事がよくわかって来たようじゃな」

おじいさんはキラリと光るような瞳を僕に向ける。

「いえ、先に見つけたのは彼の方です」

マナトは僕たちの顔を交互に見合わせて、否定の言葉を待っていたが、僕とおじいさんの笑い声に包まれただけだった。

きっと置いてあった鍋がバランスを崩しただけだろうが、マナトには絶大の効果があった様だった。

そこからはマナトの武勇伝がしばらく続き、おじいさんは頷きながら嬉しそうに話に聞き入っていた。

その隣で、僕は終始上の空だ・・・

折角この夕食を楽しみしていたのに、あの事がどうしても喉に引っ掛かっていたのだ。

「ソラ君、君の冒険はまだ聞かせてもらってない様じゃが・・・?」

黙ったままの僕に、ついにおじいさんが僕の方に興味深い瞳を走らせている。

今しかない、僕は改めておじいさんに向き直った。

「あの409号室、あの部屋はいったいどんな目的で造られたものなんですか?」

その言葉に、おじいさんはゆっくり銀食器を下ろすと、膝に掛けてあったソビエにそっと口を押しつけた。

状況がいまいち掴めていないマナトは、頬張ったままのニンジンをゴクリと喉の奥に押しやり、食事の手を止めておじいさんの方を見つめた。

「長い話じゃ・・・」おじいさんは遠い目で空(くう)を見つめながらポツリと言った。

「あの部屋はかつて、私の妻であるシレナのバレエ教室じゃった。私の妻はそれなりに有名なバレリーナでの、出会ったのは、わしがあらゆる本を探しまわって世界中を旅してフランスを訪れた時じゃ。バヤデールのシーズンでな、一目惚れじゃった・・・」

そう言うとおじいさんは遠い目で昔を見つめるように話し続けた。

マナトは小さく口笛を吹いている。

「少しもせん間に二人の子宝に恵まれての、結婚し、妻はバレエを引退し、私の故郷に戻り、この屋敷を買い取った。彼女はあの部屋で小さな子供を教えるバレエ教室を開き、そしてその隣の部屋は、かつてその親御さんの待合室として使われていたんじゃ、教室のすぐ真下の階はわしの書斎じゃった」

一通り説明すると、おじいさんは昔を懐かしんでいる様な、どこか寂し気な顔を僕に向け、顎鬚をゆるりと撫でた。

「じゃ、ここにある本全部、じっちゃんが世界中から集めた本なの?!」

マナトの興奮した声におじいさんが静かに頷く。

勝手な憶測で賢者を悪魔に変えてしまう所だった。

自分の身勝手な好奇心に、心底うんざりしながら、うな垂れる僕。

「なに、構わんよ」

おじいさんはそんな僕を気にも留めない様子で、再び遠くを眺めたまま続けた。

「わしは世界中を飛び回る本の収集家での、彼女と出会ってもまだ、本にとり憑かれておった。結婚してから、来る日も来る日も家を開け、しまいには二人の息子でさえも愛想を尽かしてしまい、いつしか病気がちになってしまった妻を放って置いたまま、それでも辞められなんだ。慌てて帰って来た時にはもう・・・」

そう言ってもう一度僕を見たおじいさんの瞳には、後悔が色濃く浮かんでいるのを感じ取れる程だった。

「私の名前を空しく呟いたまま息を引き取ったそうじゃ・・・それから、わしはこの地を離れた事がない」

おじいさんが話し終えると、僕たちの顔を交互に見つめた。

その顔は、今まで見たことがない様な、他人の様な、一人の寂しい老人の顔だった。

その場に重い沈黙が流れる。身動き一つ出来ないでただただ膝に置いた拳をギュッと握りしめる事しか出来なかった。

「君たちがそうならん事を、祈るばかりじゃ」

そう言って、おじいさんは優しい笑顔を僕たちに向けた。

何とか雰囲気を一掃しようという気遣いだろうが、瞳の奥に映るのは、深い後悔と、悲しみの残る過去だった。

おじいさんは再び銀食器に手を伸ばし、夕食の続きを進める。

誰にだって過去はある。

輝かしいもの、恥ずかしいもの、二度と思い出したくないもの・・・

僕にもある。

死に目に会えなかったのは僕も一緒だ。

担当医からは、母さんが最後に僕の名前を呼んで亡くなって逝ったと聞いている。

あの時は、それが僕の小さな復讐でもあったかの様に思っていたが・・・

僕は初めて、その事を恥じていた。