夏にはまだ少し早いというのに、気の早い蝉たちはすでに忙せわしなく泣き喚き、ジメジメと湿った空気の中、雨は更に降り続いていた。

この3日間、早すぎる梅雨が一気に押し寄せるように、今日も止むことはない。

微かに聞こえる蛙の鳴き声と、眠気を誘うお経が重なり合って何ともいえない雰囲気が辺りを包み込んでいる。

祭壇にはたくさんの花が手向けられていた。

生前母が趣味で、家の裏の小さな庭で育てていたちっぽけなスミレの花もある。

もちろん、こんな場違いな所に手向けたのは僕だけど・・・。

祭壇の一番上を見上げると、嘘のように元気な笑顔を振りまいた、派手な色の襟元が見える。女性がこちらを見つめていた。

これが、この先永遠に変わることのない、他人の中の母の姿だ。

外から伸びた光の筋が、ちょうどガラスに反射して涙が光っている様に見えるのを、僕は目を細めたまま見つめていた。

これがもう3年も前の写真だということを、きっと気にする者もいないだろうが。僕には、亡くなる間際の骨と皮に包まれた母の面影など一つも残さない別人のように感じていた。

僕が生まれて初めて目にした遺体は、亡くなる直前に見た母の寝姿と何の違いも見つけることが出来ない姿だった。

人は脆い。

疲れたり、しんどくなると死んでしまえる。

見事に脆いもので成り立っているのだ。

寂しくて死んでしまえる唯一の動物・・・。

むせ返るような線香の香りに包まれながら、祭壇の下手にボーっと突っ立って、ここに居る自分だけが違う世界の住人のように振舞った。

ドラマのお決まりのワンシーンのように、ただ、すすり泣く声が、噛みしめた嗚咽が、左右から聞こえてくるが、本気で泣いているものがいるとすると・・・時期を間違えたマヌケな蝉だけだろうと僕は顔を歪ませた。


天涯孤独―


僕は心の中でポツリと呟いき、小さく鼻で笑う。

それがまるで義務であるかのように、お焼香を済ます短い参列者に向かって何度もお辞儀を繰り返し、涙一つ見せない自分の姿が、他人にはどう映っているのだろうとばかり考えていた。

人はおかしなもので、母とは交流があっただろうが、僕とはほとんど話したこともない癖に、こんな時には、涙ながらこれ見よがしに“強く生きるのよ!”とか、“しっかりね!”などもっともらしいありふれた言葉をかけてくる。

普段挨拶を忘れるとすぐ嫌な顔を向けてくるくせに・・・。
なのにこんな時は短く気のない素振りを返しても、同情の顔がさらに強く返ってくるばかりだった。

今日この葬儀に出席している半数以上の人間が、生前母と親しかった顔馴染みの近所のおばさん連中だ。

いつもは不快な噂に花を咲かせては、それ以上の大輪に仕立て上げることに普段から特別精を出しているような人たち。

そんなおばさん達にとって僕たち母子家庭の家は最高のご馳走だったに違いない。

そうやって普段はどこかにおいしい“ネタ”はないかと不気味にかぎまわっているが、今日ばかりはとても役に立ってくれてた。

近くにお寺を借りて、質素な葬儀ではあるがその大半を手伝ってくれたのはありがたかった。

おばさんたちがこれほど厚かましくなければ、家でこっそり済ませようと思っていたぐらいなのだから・・・

もしかするとおいしい噂話のご馳走にありつく為の思いつきでしかなかったのかもしれないが・・・。

僕の身内は母親たった一人だけだ。

親戚とかイトコとか、僕には兄弟すらいない。

いや、知らないだけなのかもしれないが。

それもこれも、母は大いなる秘密主義者だったからだ。

だからと言って嘘つきではない。

根っからの正直者で、しっかり者で、明るくて気さくな人だった。

おいしいうわさ話のご馳走提供以外に、母の面倒見のよさは近所のおばさん連中にも評判は良かったハズだ。

焼香を済ませる人たちの顔をじっくり確認しながら、どこかに身内の影はないかと密かに探ってみる・・・

やはり、そんな顔も知らない様な人物は見当たらなかった。

この葬儀が始まる前に、近所のおばさん連中の合間を縫ってこっそり探し回ってもみたが・・・思った通り、顔も知らない人物に会うことなどなかった。

そんな人物が居たとして、僕にできることなど何一つないのだけれども・・・。

いや、母以外の身内が居ないわけでもない、酒浸りの母の弟、高志おじさんだ。

身内といっても顔を知っている程度で、人が思い描く優しいおじさん像とは全く遠く離れたような存在だ。

僕が知っているおじさんの姿は、小学校に上がる頃からから今まで、ちっとも変わっていない。

お気に入りの酒ボトルを持ち歩き、ところ構わず座り込んで、桜の花びらが描かれた自前の湯飲み茶碗を洋服の内ポケットから引っ張り出し、いつも不服そうに独り言を呟やきながらお酒を煽っている姿だ。

そんな高志おじさんの顔はひどい酒焼けで、微妙にこけた頬と丸くて低い鼻の頭からシワだらけの首までもが赤茶色に変色していた。

近寄ろうものなら、むせ返るようなひどいアルコールの匂いに、こっちが二日酔いになりそうなほどだった。

当然そんなおじさんが好きになれなくて、彼が来るといつも母の後ろに隠れていたのは鮮明に思い出せる。

そして今も僕の隣に身を隠すように祭壇の角を陣取っては、一足先に一杯やり始めている有様だ。

これについて近所のおばさん達はどんな見出しをつけるだろう?明日には号外が出るかもしれないな・・・。

そう思いながら、僕は横目で思い切り伯父さんを睨みつける。

が、彼は気にもとめない様子で酒を煽り続けていた。

そうこうしている間に参列客が焼香を済ませ、時計に目をやった時には全てがスケジュールどおりに進んでいることに気がついた。

そろそろ昼食の時間か・・・僕はうんざり顔でその場を後にした。