ここでマナトは僕に身を乗り出す。
僕も思わず耳を近づけた。

「じゃ、聞くけど、万が一、彼女に自殺願望があったら?それを、誰でもないお前に、止めてほしかったとしたら?」

そんなまさかと言わんばかりに、僕はマナトを見返しが、マナトの瞳は真剣そのものだ。

「馬鹿ばかしい!お前はあれだ、映画の見過ぎ・・・」

襲いかかる恐怖を振り払うように言ったが、それでもマナトは引き下がらなかった。

「ほんとか?本当にそう思うか?言い切れるのか?」

畳みかけるように訴えるマナトに押されつつ、僕もガンとして自分の意見を訴えた。

「思うね、彼女はただの里帰りだ。お前が思ってる映画の様なことは起こらない、日記から出てきたあの手紙だって、彼女の字じゃないんだ、彼女がその事を知ってるとも言い難い。現実の世界ではな、彼女を追って行ってる間に、大学の単位を大幅に落とし、極小企業で上司にイワミ言われながら一生を終える寂しい男の話にすり替わる。これでダブったら履歴書にも傷が付くしな」

僕の言葉に、マナトはお手上げだと言わんばかりにイスの背もたれに体を預けた。

「お前、自殺で亡くなって逝く人のニュース見たことない?大抵、 “そんな風にはみえなかった”、 “元気そうだった ”って聞くぞ。それなのにお前は自分の心配ばっかりかよ・・・」

そんなマナトも引き下がらない。しっかり負けじと体制を整え直してくる。

「わかった、じゃ、教えてやるよ!会社もってる俺の伯父さんに聞いた話だ。今の時代、どういう人間が面接に通るか、学歴でも、資格でもない。コミュニケーション能力だ。今の面接がどんなか知ってるか?”人生でたった一回だけ、どうしようもないバカができます。さて、あなたならどうしますか?何て、質問されるんだぜ、お前が彼女は大丈夫だって言うんなら、そうだと思う。彼女こと知ってるのは、お前だからな、けど、そんなのはどうでもいい!ただ、つまんねぇー人生に、何か一つでも、やってやったぜ!ってことを作った方がいいという事だ、お前の場合はっ!」

息も絶え絶え、こんなに熱くなったマナトを見るのは初めてだった。

支離滅裂。

問題はいつの間にかミューではなく、僕の問題にすり変わっていた。
だが、マナトの言いたいことが、わからないわけでもない。

今まで、ただ安全に、やり過ごしてきた人生だ。近所のうわさ話で母が傷つかない様に、あるいは自分が傷つかない様、人目を出来るだけ避けながら生きてきた。

ふと、脇を見上げると、鬼のような形相の司書が、仁王立ちのまま僕たちの前に立ちはだかっている。

その腕がゆっくり出口を指し示す時には、大慌てで自分の持ち物をかき集め、慌てて2人で出口に向かった。

そろそろここにいるのは潮時だ。

空がうっすらと暗くなり始めている。
バツが悪そうな顔で、マナトは小さくフッと笑った。

「あのさ、多分、この大学は、就職率もいいし、きちんと講義を取れてれば、エリート街道まっしぐらだと思う。金もあって、旅行にも行けて、結婚相手も選べるようになる。彼女の事は置いといてさ、”男の武勇伝 ”を話す経験が何もない人生なんて、楽しいか?」

そんなマナトの渾身の一撃・・・だったのかもしれない。

僕は思わず情けなく笑った。

ミューの事が心配だ、今すぐに行ってやらないと!
そう素直に行動出来ていた “僕 ”はいったいどこに行ってしまったのか?

逃げるためにしないことを、出来ないことにする言い訳の潮時なのかもしれない。

「行けよ、それがお前の全てだと思って」

ここでマナトが、僕に向き直った。

「決めるのはお前だ。だけど・・・」

そう言ってマナトが僕に向って深々と頭を下げた。

「ミューちゃんの居場所が分からない、望みはあの日記だけだから」

「お前・・・ミューのこと、本気で?」

「・・・一目ぼれでした」

いつもはオチャラケたマナトだが、頭を下げていてもわかるほど赤かった。

「多分、俺じゃ駄目なんだ・・・」

驚いたまま何の言葉もかけてやれない僕に、マナトは慌てて付け足した。

「お前が、決めるんだぞ!」

そう言って顔を上げたマナトの顔は、そう納得した男の顔だった。
この姿が、この先永遠に、忘れることのない、マナトという男の姿なんだと、僕は思った。

「考える。」

そんな僕に、マナトはニヤッ笑って頷いた。

「じゃ、ソラちゃんと、僕の秘密の宿題ってことで」

マナトがそう言うと、僕は日記の内容を思い出して思わず顔が熱くなるのを感じ、小さく眼の端で睨んだら、マナトは声を出して笑った。

「待ってるよん」

そういって、片手を上げると、マナトは家路へと帰って行った。

本当に大丈夫なのか?

そんなマナトの背中を見送りつつ、僕は考えながら歩きだした。

いい会社に就職する。
これは母さんとの約束でもあった。
遠い昔の話だけど・・・

独りよがりかもしれないが、立派な人間になって、その姿を見せることができたら・・・

もう母もお金の面で苦労することなく、僕の事も放っておいてくれるだろうと・・・

大学のこの大事な学期に、大幅の休学届けを出すのは懸命な選択とは言えない。

それこそ自殺行為だと僕は顔を渋らせる。
だけど・・・

あの頃、彼女は僕の全てだった。

彼女は、僕の知らない世界を惜しみなく魅せてくれた唯一の人だった。

今更あんな交換日記一冊で、僕の心をここまで激しく揺さぶるのも、彼女だからという意外、なんの説明も、言葉も必要ないのではないかと思うぐらいだ。

それだけ僕にとって大きな存在の一つだった。或いは母と同じぐらいの。

今まで、彼女から我儘を聞かされた事があっただろうか?
いや、ない。

離れていた分、知らない苦労に押しつぶされて・・・それも言葉にできないでいたとしたら?

マナトが言うように、よからぬ事を考えていたらどうする?

それを救えるのが、僕だけだとしたら?不安が津波の様に押し寄せてくる。

昔とちっとも変らない笑顔の裏に隠された彼女の闇が、まるで漆黒のベールに包まれて行く様だった。

広いリビングで、壁にかかった鏡に、僕の顔が映っていた。

幼い頃の僕、あの頃の僕、今よりは素直な笑顔で笑っていられた僕・・・。

それは、彼女にしかできなかったことだ、彼女にしか造り出すことの出来なかった笑顔。

そんな人の笑顔を、今度は僕が奪うことになるのか?

この先もし、見られない様な事になっても、後悔はしないか?

いつものようにカップ麺の殻をゴミ箱に押し込めた。

もう答えは決まっていた。



翌日。
別々の講義を済ませて、僕たちは食堂で落ち合う約束をしていた。

今度は小うるさい司書もいない。
人もまだらになった食堂で、一足先に陣取っていたのはマナトだった。

「よっ!」

今朝、顔を見かけた時から、マナトはあの事について一言も触れていなかった。

説得することは止めて、僕の決断に任すことにしてくれた様だった。

僕もそのことには触れずにいたかったのだが、あの日記と手紙は、マナトに持っていて欲しかった。だから驚くマナトの手に、今朝無理やり押しやって、最後の講義を済ませてから、ここにやって来たのだった。

案の定、日記と手紙をテーブルに広げ、その周りには走り書きのようなメモが散乱している。

慌ててスペースを作るマナトだったが、日記と手紙だけは丁寧にカバンへとしまうその姿に、僕は思わず笑って、カバンから一枚の紙を取り出すと、マナトの顔の前にヒラリとかざす。

「ハッ!やるじゃん!!」

驚いたマナトは、両眉を吊り上げ、信じられないと言わんばかりに、嬉しそうな表情で僕に目を移した。興奮した様子で手から紙を受け取ると、顔がくっつきそうなほど目を凝らしている。

「ここに来る前に取ってきた」

休学届だ。

なぜか僕は清々しい気持ちでマナトを見つめる。

「教務課のおばちゃんには怒鳴られたけどな、こんな大事な時期に!って。」

マナトは興奮した様子で身を乗り出し、僕と休学届を交互に見つめた。

「で、理由は何て書いた?」

僕はいつものマナトのニヤリ顔に負けないシタリ顔で呟いた。

「今しかできない自分の為の旅」

そういって笑う僕に、マナトの顔がみるみる曇ってゆく。

「?」

「いや、ただ・・・ほんとにそれでいいんだな?」

今になって、マナトは申し訳なさそうな顔で念を押す。

「俺が決めたことだ、お前のせいじゃない」

それでもマナトは心配そうな顔を浮かべている。

「今は、結果がどうあれ、何かスッキリした気分だ」

マナトの顔を真っすぐ見つめて言いきった。
マナトは少し自嘲気味に笑みを浮かべ、少しうつむくとすぐに顔を上げる。

「とりあえず、聞き込み調査からやるか?」

マナトなりの納得の上、ようやくいつものニヤリ顔を走らせたのだった。
準備期間として、聞き込み調査も兼ね、少し時間をとって、出発は3日後になった。

とりあえず僕たちに今できることは、万全な準備だ。

彼女からの手紙じゃないと仮定して、この街の、彼女に行きあたる場所、人を徹底的に調べることにした。

バイト先、行きつけのレストラン、勉強場所、お気に入りの場所、友達の家・・・

マナトは常に彼女のケータイに連絡を入れる役を買って出てくれたが、すでに電源を切られてしまっている様だった。

彼女に関する事ならどんな事もメモにとり、直接話が出来る様にと、人と会う時間も作った。

いつしか大学中のウワサは、またたく間に失踪したミューではなく、僕たちに集中していた。僕に対する不信感や、悪い噂も消え、今や大学中の人たちが僕たちに協力的になってくれていた。

親切な人は、ケータイに連絡もくれたけど、半数が女子によるいたずら電話であったのも事実だけど。

中には僕が電話を取ると、受話器越しに、“ね?マジでソラ君のケータイっつったじゃん? ”と聞き覚えのある声もあった。

彼女が書いたどうでもいいメモや、写真も手に入れ、本格的な捜査を始めてから、2日目の夕方を迎え、僕は市立図書館でまたしても難しい顔を浮かべていた。

マナトは大学の講義があるので、それが終わった後の、僕たちの待ち合わせ場所がいつしかここになったのだ。

「わりぃ、遅れた」

少し疲れ気味のマナトは、テーブルにすでに莫大な量となって、図書館の大きめのテーブルを小さく思わせるほど広げられているのをしばらく眺めて、散乱するメモを避ける様に、ドサリとカバンを下ろす。