手桶から柄杓で水を汲んで、墓にかけていく。
持参したたわしで汚れを落としていくのが恒例の掃除。
冷え切った水が手の体温を奪っていくけれど、そんなことはどうでもよかった。
まだそこが汚れてるよ、裏側もちゃんとやってよね、
そんな風に妻に言われているような気がして、思わず口元が綻ぶ。
妻がもういいよ、と言っている気がしたときには、すっかり墓の汚れは取れていた。
彼女が丁寧に花の枝を切りそろえて、墓に供える。
いくつかを束ねて火をつけた線香を置いた後、
僕はまるで、日常会話をするように明るく話しかけた。
「弓枝。紹介したい人がいるんだ、
こちらは、尾形紀子さん。
僕の大切な人なんだ。もちろん、弓枝のことも大事だけれど」
二人の女を大事なんて贅沢ね、そんな風に笑ってくれるだろうと思う。
「尾形と申します」
深く頭を下げたあと、彼女はとても優しい目をしていた。
「そうだ、林檎を持って来ればよかったなぁ」
「林檎ですか?」
「ああ、弓枝は林檎が好きだったから」
「今度来るときは、必ず持ってきますね」
妻のいる墓に向かって言う彼女。
“今度来るとき”と彼女がなにげなしに言った言葉を意識している僕を、
弓枝は可笑しそうに笑っているんだろうな。
「じゃあ行こうか」
墓を去るのが少し惜しかったが、また彼女と来ればいいと思えた。
もし僕が亡くなった後でも、彼女はこうして墓参りに来てくれるんだろうな。
僕以上に晴れやかな顔をしている彼女を見てそう思った。
「次はお盆ですかね?」
「そうだね」
「私もお盆に、祖父母のお墓参りに行くつもりなので。
一緒に来てくれますか?」
「あぁ…もちろんだよ」
また“一緒”に行く約束が出来た。
なんだかとんでもなく恥ずかしくなって、彼女から目をそらす。
ふと見えた景色は、僕たちが手桶に水を入れた水道で、若い女性が立っている画だった。
どこかで見たことがあるような…と、
数年前の記憶に残っているような…と、
誰だっただろうか、そんな疑問は、女性の手元にあった林檎を見てすぐに解けた。