「あ、この人な…」
私は正樹がそう言いかけた瞬間、くるりと後ろを振り返り、今 来た道を走った。
「紗子っ…!!」
後ろから正樹の大きな声がする。
私はごった返す人混みをかき分け、時に人にぶつかりながらひたすら走った。
途中正樹に追いつかれないように角も曲がり、ただ走った。
何もかも空っぽになってしまった心と、冷静すぎる頭。
私はしばらく走って、レンガの壁を支えに、呼吸を整えた。
この壁って……気が付けば大学へ着いていたみたい。
カバンの中のスマホが震えている。
私は何も考えずに、それを切り、そのまま正樹を着信拒否リストへ登録し、着信履歴を消去した。
そしてメールはすべて開かずに、フォルダごとまとめて消去した。
何も―――何も聞きたくない。
私はグッと何かを押し殺すかのように体の中に留め、唇を噛み締めた。
「……っ」
走ったせいか少し身体は熱い。それなのに身体の中はとても冷たいように感じた。
それでもどことなく現実感がなく、ふわふわと夢の世界にいるのではないかと思う。
思考能力はゼロだった。何も考えられない。
ただ覚えているのは今から受ける講義の教室の場所だけ。
私は現実にいる一部の自分に頼り、ふらふらと、ゆっくりとおぼつかない足を進めるのであった。

