私は目の前にあるコップをじっと見たあと、右手で取って口に運んだ。彼はその様子をずっと見ていたけど、目が合うと視線を逸らした。
「なんか変?」
「なんで?」
「ずっと見てたから」
「変じゃないよ」
「そう?」
「そう」
 そのあとはまた、どうでもいい話をした。
 久しぶりに会った友達の事とか、大学の事とか。
 本当にどうでもいい話。
「ただいま」
 そんな声が玄関からして、私は思わず振り返った。
「お帰り」
 彼が返事をする。私は黙ってるだけ。
 ビニール袋が擦れる音がして、入り口から女の人が入ってきた。
「友達?」
「そう」
「こんにちは」
 私も慌てて返事をする。
「こんな汚いところにあげてごめんなさいね」
「いえ」
 彼のお母さんはずいぶんと優しい人だった。
 これは本当。


 台所から彼の部屋に移って、もう少し話をした。
「拓也(たくや)君!」
 そう呼ばれて、彼は「なに?」と言いながら部屋を出て行く。
「ちょっと待ってて」
「うん」
 ドアが閉まったあと、私はすることもなく、彼の部屋を見回した。
 本棚があって、そこには小説がずらっと並んでいる。漫画が一冊も無いのは凄いと思う。あとはなにも無かった。全部北海道に持っていったらしい。
 観察にも飽きて、私はごろんと仰向けになった。
 何もしないのは走ることよりも疲れる。
 手を伸ばしたとき、左手に何かが触れた。
 濡れている。
 起き上がって確かめると、彼が脱いだオレンジ色のTシャツが置いてあった。それを見たとき、さっき顔に触れたTシャツの感触が蘇る。私の体が勝手に動いた。
 両手に取って見つめたあと、恐る恐る顔に近づけた。
 一度、男の人のシャツでやったことがある。
 陸上部の先輩のシャツ。
 先生に言われてストップウォッチを取りに部室に戻ったら、先輩のシャツが脱ぎ捨ててあった。思わず手にとって顔を埋めた。
 においがきつかった。
 それが感想。
 彼のシャツに顔を埋める。においは先輩のシャツより全然いい。それでも男の人のにおいがした。
 いいにおい。
 お父さんがいない私にとって、男の人のにおいは嗅ぎ慣れていない少し不思議なにおい。それでも彼のTシャツのにおいは、なんでか懐かしいにおいがした。