「じゃあ僕、そろそろ行きますね」
男はそう言って、扉の取っ手を回した。
ヤバい……行っちゃう!
杏奈は何か言わなきゃ、と内心焦った。
「待って……、行かないで」
口から出たのは、まるで去り行く恋人を引き留めるような乙女ちっくなセリフ。
表情もそれらしく、眉を寄せて切なそうなものを作った。
「……え? なな、何です? いきなり」
男は覆面越しでも分かるほど、狼狽していた。
案外、単純な性格なのかもしれない。
「行っちゃダメ……。あなたの雰囲気、何となく悠介に似てるんだよね」
杏奈は伏し目がちに呟いた後、上目づかいに男を見上げた。
と言っても、160センチの杏奈とほとんど背丈が変わらない。
「そ……そうですか? 僕とあのカッコイイ彼氏が……」
男は少し照れくさそうに言いながら、自分の足元に視線を落とした。
全っ然、似てないけどね。
冷ややかな心の中とは裏腹に、恋する乙女を演じ続ける。
「寂しい……。毎回、あなたが来てくれたら良いのにな」
「……ごめんなさい。僕には何も言えない」
覆面の男は苦しそうなかすれ声で呟くと、杏奈の顔を見ずに部屋から出て行ってしまった。
──“計画”失敗?
でも、手応えはあったわ……。
杏奈はこの絶望的な監禁生活の中で、わずかな希望の光を見いだした。
あの男の前では、“女”を演じよう。
恥もプライドも捨てて──。
覆面男の存在で、少しだけ気が軽くなった。
杏奈は空腹を感じ、頭の中に食べ物を思い浮かべた。
悠介がどんな目に遭っているのかも考えずに……。


