それはいつだっただろうか。何年も昔の話だ。それはとてもとても幸せな夢だった。
それと同時にとても残酷な夢だった。

いつも通りの放課後だ。果てし無く遠く感じるような家路を一人歩き続けた。
家にいる時間を減らすためにわざわざ遠くの学校に通っているのだからおれにも、もちろん両親にとっても不満は全くない。
しかしどうせ時間稼ぎだ。いつかは家に着いてしまう。小学生は寄り道だって出来やしない。精々遅くても帰るのは五時過ぎだった。
教室に入る前と同じような鬱々とした気分で家の戸を開ける。俯きながら、無言で。いつも通りだ。
いつも通りのはずだった。
「おかえりなさい。今日は随分と遅いのね」
聞きなれない穏やかな母の声に驚き、一瞬思考が停止した。心配したわ、とまた優しげな声が頭上に聞こえる。混乱しつつもゆっくりと前を向くとそこには優しく微笑む母がいた。
「っ…?な、ん」
「ただいまくらい言いなさい」
呆れるように言う。それはたしかに母の顔で、母の声だ。でも、こんな人は知らない。なんなんだ、と尚更混乱する。
「おま、な、だれ…だよ」
混乱しすぎて思わず片言になってしまった。しかし〝母〟はそんなことは気にしていないようでああそうだ、とまた話し出す。
「早くお風呂入っちゃいなさい。お父さんも今日早く帰ってくるから」
そういってくるりと踵を返して台所へ戻っていく。状況はよくわからない。しかしとりあえずここは自分の家だ。あの〝母〟が誰でなんだとしても関係はない。もしかしたらただ単に心境の変化でもあったのかもしれないと言い聞かせつつ家に上がる。そんなはずはないとわかってはいるけれど。いつも通り廊下をすこし歩いて左側のドアを開ける。そこにはいつも通り殺風景な部屋が広がっていた。必要最低限の家具しかない殺風景な部屋。いつも通り机の上にランドセルを置いた。ふと机に目を向けるとそこには見覚えのない木のシンプルなデザインの写真立てが伏せてあった。埃はかぶっていないし、最近置かれたものだろうか、などと考えつつ写真立てを立て直す。するとそれは親子三人で楽しげに写っている入学式の写真だった。
「なんだ、これ…?」
そんな写真は撮った覚えがなかった。ましてや家族写真すら撮った覚えはない。混乱して立ち尽くしていると玄関のドアの開く音が聞こえた。小さくただいま、という声が聞こえる。
いつものように刺々しい険悪な声ではなく、穏やかなトーンの〝母〟と〝父〟の会話が聞こえる。それは尚更おれを困惑させるものだった。
「お父さん帰って来たから、先にご飯食べましょう」
おれを呼んでいるのだろう。母親の大声が響いた。恐る恐るといった感じで食卓のあるリビングへ向かった。食卓にはエプロン姿の母親とスーツを脱いでワイシャツ姿の父親が座っていた。ご飯もきちんと三人分並べられている。立ちすくむおれに母親が優しく微笑みながら早く座るように促した。それに従って席につく。目の前には穏やかに談笑する父と母がいた。
もしかしたら。
「ねえ、今日はどんなことがあったの。話を聞きたいわ」
「今日…これといって無かったなぁ。あぁ、そうだ。でもー」
おれのつまらない話を2人とも楽しそうに聞いていた。
もしかしたら。
この世界が、この家庭が、この家族が本当で、今までのことは悪い夢だったのかもしれない。そうだ、長い長い嫌な夢。
そうだったんだ。
「ーなあ、母さん、父さん」
なあに、と首を傾げる母。なんだ、と訝しげな顔をする父。
「おれさ、今までひたすらに長くてすげぇやな夢を見てたんだ」
それは辛かったね。と、母は顔を歪める。そうだ。今までが長い嫌な夢の中だったんだ。今が本物なんだ。
そうに決まってる。
「本当に嫌な夢だったんだ…でもさ、どうせ夢だったから、これが現実だから」
そう言うと父さんも母さんも嬉しそうに微笑んだ。
「そうだ、聞いてよ。おれ今日テストで百点取ったんだ、クラスで一人だけだったんだぜ?」
そう言うと2人はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をした。
「そうか、えらいな」
そう言って父さんはおれの頭を撫でた。変な感覚だった。少し違和感を感じたが、それでも素直に嬉しかった。
「頭がいいのね、すごいわ」
そう言って母さんはおれの頬を撫でた。体温を感じない。人肌の感覚なんて覚えていないからもともとこんなものなのかもしれない。ただ単に嬉しかった。俯いて、目を閉じて、少し笑った。にやつく、の方が表現としては合っていたかもしれない。
そうしてぱっと前を向くとそこには母さんも父さんもいなかった。
ただ砂のような塊がいるだけだ。
「っ、え、は?…か、あさん?父さん…は?」
ぐるぐると目の前がまわる。グニャグニャと世界が歪み出した。砂が崩れる。ざらざらと音を立てて崩れていく。
「なんだ、なんだよ、なんなんだ!!?」
叫んだが、無駄だった。世界はもう色が混ざり合って真っ黒に染まっていた。
ああ、やっぱりだ。
こっちの世界が紛れもない
「夢だったんだ」
自分の声と頬を流れる冷たい涙の感触でめがさめた。目を開けた先には黒ではなく天井の白が広がっていた。ぎしりとベットを軋ませながら起き上がる。辺りを見回すとそれはいつも通りの風景だった。立ち上がって机の上を探る。写真立てはどこにもない。
ドアを開けて食卓のあるリビングへ向かう。そこには談笑する〝母〟も〝父〟も当然のようにいなかった。〝父〟はもう仕事に出たのだろうか。あたりを見回しても見当たらない。〝母〟は台所で食器の後片付けを黙々としていておれを一瞥もしない。
いつも通りの風景だ。
そういえば夢の中でさえもおれは二人に名前を呼ばれなかったな。呼ばれた記憶がないからか。どんな風に呼ばれるかも分からないからだろうか。
流しっぱなしにしていた涙をぐい、と拭った。