オリーブの首飾り(1)

20××年6月20日日曜日。
昼下がり。

A県C市内に於いて男子大学生が横断歩道を渡ろうとしたら、信号無視の軽自動車に跳ねられ病院に搬送された。

大学生は頭部を路面に強く打ち付け、ほぼ即死状態で病院に運ばれ、家族が病院に駆けつけた時には、既に死亡が確認されていた。

彼は臓器提供意思表示カードを持っていてそれには心臓だけ提供する旨の記載があった。

医師は家族の到着を待とうとしたが、一刻を争う状況に心臓の摘出を決意する。
必要最低限の手続きはした。

その事に関しては医師も、病院側も法律に触れる様な事はなかった。


何故、彼は心臓だけ提供しようとしたのか。

18歳になったばかりの頃、母親に冗談混じりに語っていた事がある。

「例えば、僕が死んだらそこで僕の人生は終わる。でも、もしも僕の心臓が必要な人の身体に使われたら、僕は、また生きられる」

母親はその時は怒ったが、
「それもそうね」

そう言って心ならずも賛成してしまった。
まさか「そんな時」が来るなどとは思いもしなかったからだ。
渡辺正一21歳だった。


二年後。
穏やかな、よく晴れた日だった。

渡辺和也と妻の春子は、市内を流れる下井川の遊歩道を歩いていた。

前から親子連れと思われる三人が歩いて来る。
子供は女子高校生ぐらいか。


すれ違う時、その女の子がつまづき、転びそうになり、
「危ない!」
春子は咄嗟に女の子を支えた。
「大丈夫?」
「はい」
女の子の両親と思われる二人は、
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
「あぁ、はい………」

遠ざかる三人の姿を春子はいつ迄も見送っていた。


そして、
春子は女の子を支えた自分の手を、強く握り締め、
「正一………」
そう呟いたが、その言葉は和也には聞こえなかった。


それから一ヶ月後。
和也が仕事を終え帰宅したら、妻の春子は機嫌が良かった。

一人息子がこの世を去ってから、心療内科に通うほど心身共に疲弊していたが、元気が出て来ていた。
和也は内心ほっとしていた。


春子は編み物をしていた。
赤いマフラーだった。

和也は春子に着替えを渡されながら、
「馬鹿に派手なマフラーだな。俺には無理だよ」
そう言って笑った。

春子は、
「なに、言ってんのよ。これは正一のマフラーよ」
「………?」

「もう寒いからね。あの子にマフラーあげようと思って」
「………?」

春子は嬉しそうに言った。
「春子!なにを言ってるんだ!大丈夫か?」

「何が?………大丈夫に決まってるじゃあないの。あなたのマフラーは、正一の次ね」
春子は笑いながら答えた。

和也は春子の心の傷が未だ癒えていない事を悟った。


「春子!
正一は死んだんだ!現実を受け止めろ!なにも治ってなかったのか!前に進んでくれよ!頼むよ!」

和也は春子から赤いマフラーを取り上げ、畳の上に投げつけた。

辛い気持ちの中、仕事をこなしながら妻の気持ちも支えて来た。
やっと立ち直れると思ったのに………

辛いのはお前だけじゃあない!
そう言いたかった。

「なんて事するの!」
春子は血相を変えて怒り出した。

「あなたこそ、なに言ってるの!あの子は生きてるのよ!私はこの手であの子に触ったの!あの子は生きてるのよ!あの子よ!間違いないわ!」

「あの子をとうとう見つけたわ!あの子ね、………今度は女の子になっていたのよ。ふふっ」

和也は自分の心が凍る様な思いがした。